ことばの国のアリス

投稿日 2013年2月28日

児童文学はつまらない,というヘンケンをいつのまにか,ぼくはもつようになった。たいてい,もしもしカメよ,のように教訓的であるか,マッチうりのように,かなしいか,どっちかだ。したがって,山中峯太郎のスパイや,南洋一郎の冒険小説などの世界へ,ファンタジーの時代をとおらずに,一足とびにとびこんでしまったことは,狩猟の時代から,牧畜の時代をとおらずに,農耕の時代にとびこまされてしまった日本民族とおなじく,たいへんな損だったとおもっている。

小川未明は,日本における近代童話の創始者ということで,へえ,そんなにえらいんか,とおもっていたら,石井桃子などの『子どもと文学』で,すべての原罪はそこへかえるようなふうに,やっつけている。たとえば,「赤いろうそくと人魚」の話は「イメージの上からも,叙述の上からも,テンス(時)の上からも,たいへんな混乱を見せて」いる。出だしの2,3ページにもわたって,人魚の心理と,それを象徴する風景の描写が,ただ,さびしい,さびしい,ということだけが,くどくどとくりかえされ,具体的なデータは何ひとつあたえられない。これでは文学としては下の下である。この人魚は,子どもにはこんなさびしさは味わわせまいとおもって「人情もあってやさしいときいている」人間の世界へ,これから生まれるわが子を「捨て子」しようと決心する。しかし,こんな人里はなれて,没交渉にくらしている人魚が,いかにして人間の世界のことをきいてしっているか? アンデルセンの「人魚姫」では,人魚が十五才の誕生日になると,はじめて海の上へ浮かんでいって,人間の明るい世界を見ることが許されている。この,いかにして知るか,というニンシキのプロセスがぬけていることなど,必然性がなく,論理的でないことが,現実感をよわめ,ストーリーぜんたいの力をよわめている。(1)

浜田広介の「泣いた赤おに」では,赤おにが,自分はやさしい赤おにであることを人間に知らせるために,立札をたてる。

ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。
ドナタデモ オイデ クダサイ。
オイシイ オカシガ ゴザイマス。
オチャモ ワカシテ ゴザイマス。

この立札をみた人間たちの会話と,──以下は石井桃子たちの感想である。

「へえ,どうも,ふしぎなことだな。たしかに,これは,おにの字だが」──どうして,おにの字とわかるか。
「むろん,そうとも,ふでに力がはいっているよ」──なぜ,むろんか。力があればおにの字か。
「まじめな気もちで書いたらしい」──突然まじめとわかるのがふしぎだ。
「そうなれば,このもんくにも,うそ,いつわりがないことになる」──前の仮定が,こんどは断定となる。こんな妙な理屈で,話が進む(2)

子どもは,スナオに,あたえられたままうけとるもんだ,というオトナの議論があるようだが,こんがらがったままの,ひんまがった論理をあたえて,スナオにうけとれとは,ひどい。これは「何よ」「なぜ」としつこく聞く子どもの心理に反していることを,あとでのべたい。しかし,ミルン作『熊のプーさん』では,プーさんはすこし頭がよわいという設定なので,それだけに,知ることの問題は,意識的にとりあつかわれている。(3)

大雨でコブタのうちが水につかり,ビンに手紙を入れて,ながす。その紙の片側には,

タスケテクタサイ
コプタ(ポク)

とかき,その裏側には

ポクテスコプタ
タスケテタスケテ

とかいた。それがプーのところへながれてきたのをひろって,プーは

「てまみだよ」と,思ったのです。「そうだよ。それで,この○のついた字は,プの字だよ。そうともさね,そうともさね。で,プは,プーなんだから,こりゃ,ぼくのところへ来た,とても大事なてまみなんだけど,ぼく読めないんだ。クリストファー・ロビンか,フクロか,ウサギか,誰かそういう読み方の上手な,字の読める人を探して,このてまみのわけ,読んでもらわなくちゃ……」

『ふしぎの国のアリス』は,とても注意ぶかい。テーブルのうえに DRINK ME とフダのついたビンがのっかっているが,おいそれとはのまない。「まず,毒薬とかいてあるかどうかしらべなくては」「これはアリスがよんだいろいろのおもしろい童話のなかで,子どもがやけどをしたりけものにくわれたり,そのた不愉快な事件は,みんな事のおこりは,子どもがおとなのおしえたかんたんなおしえ……をわすれたからで」(4)

というわけ。ここで彼女は,そういうレッテルがはってないのをたしかめて,安心してのんでしまう。

彼女は意味論学者のように,コミュニケーションについて意識的であり,自分の泣いた涙で洪水になったとき,ネズミにあうが,

「おおネズミよ!」

と呼びかける。

(アリスはこれがネズミに対する正しい言葉のかけ方だと思いました。今までそんな経験はないのですが,兄さんのラテン語文法書に「ネズミハ,ネズミノ,ネズミニ,ネズミヲ,オオネズミヨ!」とかいてあったのを見たおぼえがあったのです)しかしネズミはだまってながめている。

「たぶん英語がわからないのだろう」

とアリスはおもいました。

「ことによると,ウィリアム征服王とわたってきたフランス・ネズミかもしれないわ」そこでこんどはフランス語読本の第一課にあった文で:Ou est ma chatte? といいなおしました。

すると,ネズミは,シンボルに対してでも,実物に対するとおなじ反応をしめし,ふるえあがってしまう。このコトバとモノの関係は,アリス物語ぜんたいをとおして,主要なテーマとなっており,コトバについての議論,メタ言語が多いことが,特長である。

彼女はプラグマチストで,行動の結果によって意味を知ろうとする。彼女が大きくなりたがっていると,イモムシが,キノコの「片側では大きくなり,別の側では小さくなる」といっておしえてくれる。しかしキノコはまるいから,どっちがどっちかわからない。と,両手をのばして,すこしずつもぎとり,たべて,効果をみる。

左の方をたべすぎて,すごく背がたかく,首がながく,青葉の森をつきぬけて空へのびてしまう。首をヘビのようにまげて,自分がもとその下をうろうろしていた木のこずえの方へつっこもうとしたとたん,するどい風をきる音がして,大きなハトがとんできて,そのハネで彼女の顔をひっぱたいた。

「ヘビだ!」とハトはさけびました。
「ヘビじゃないわよ!」とアリスはおこっていいました。「うるさいわね!」
「なんといってもヘビだ」

とハトはくりかえす。ハトはヘビからタマゴをまもるために,木の根,土手,垣根と転々として,いちばんたかい木にたどりついたばかりのことだ。アリスは,ヘビじゃない,といいつづける。

「では何なんですか?」とハトはいいました。「あなたがウソをつくつもりなのはわかっていますよ」「わたしはね,あの──わたしは少女だわ」とアリスはいいましたが,その日はずいぶん何度もかわったのをおもいだして,あやふやな調子でした。
「へん! 大方そうでしょうよ!」ハトはバカにしきった調子です。「今までずいぶんと少女にお目にかかりましたがね,そんな首長のなんざ1人だってありはしない! ……いまに,タマゴなどくったおぼえがないとおっしゃるでしょうよ」
「タマゴはたしかにたべたことがあるわ」とアリスは,根が正直もので申しました。
「少女だってタマゴはたべるわよ」
「もしたべれば,ヘビの一種にちがいないじゃないですか」とハトはいいました

こんなぐあいに,アリスはいたるところで,言いまかされてばかりいる。ハンプティー・ダンプティーにいわせれば,これは「名誉」だそうだが,ルーイス・キャロルは本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン Charles Lutwidge Dodgson (1832-1898),オクスフォードで男子学生には数学,女子学生には論理学をおしえるのが本職だったから,リクツでかないっこない。

アリスの国々は「論理学と形而上学と認識論と倫理学の問題や持参品でいっぱいなのだ」とアメリカの哲学者ロジャー・ホームズはいって,「哲学の国のアリス」で,いろいろ例をあげている。ファンタジーの世界であるがゆえに,ひじょうに極端な,じつは純粋なかたちで,観念論と唯物論,実念論と唯名論,精神と肉体,全称命題の換位絶対不可能性や,空虚部類の問題,時間と記憶,空間,正義の問題などが,いきいきとあつかわれてしまった。そして動物や怪物たちにまきこまれて,こんがらがっている子ども,アリスをとおして,逆に,オトナたちのやってるふしぎな世界を浮きあがらせるという結果になってくる。たとえば『鏡の国』では時間が逆もどりする。

「ではあなたはどんなことを一番よく思い出しますか?」とアリスは思いきってきいてみました。
「そりゃー,さらい週おこったことじゃな」と女王はあたりまえにこたえました。
「たとえばじゃ」と女王は指に大きなコウヤクをはりつけながら,つづけました。「王の使者じゃ。彼はいまロウヤで,罰をうけている。そして裁判は来週の水曜日までは始まりもせぬのじゃ。むろん,彼が罪をおかすのは,一番あとのことじゃ」
「彼が罪をおかさないとしたら?」とアリスはいいました。
「なおさらけっこうではないか?」と女王はほうたいでコウヤクを指にまきながらいいました。

これでホームズ教授は,おこった父親が,むすこがケンカしたというので,しりをなぐった話をおもいだしている。むすこは,わたしはケンカなんかしませんと言いはった。すると父親はたたく手をやめずにこたえた。きょうしなくたって,いつかはするにきまってるからな。ドロシー・トムソンは『ふしぎの国』の最後の章におけるハートのジャックの裁判をあつかって,それとヒトラーのドイツにおける法律手続の類似をあきらかにして,ホームズ教授をぞっとさせた。ぼくがおもいだすのは,松川事件のような,デッチあげである。まずだれかをつかまえてぶちこむ。犯行はそれからだ。それから,破防法,政防法など,「防止」という字のつく治安立法である。西ドイツの内乱予備罪,国家危殆罪などもおなじで,おかすかもしれない犯行に対して,つかまえて,罰しておく。もし犯行がじっさいにおこらなかったとしたら「なおさらけっこうではいか?」

このように,子どもの目をとおして,おとなの社会を批判する筋だてを,ウィリアム・エンプソンは『牧歌のバリエーション』とかんがえた。もとは羊飼とか農夫のような下層の無学の人間が,真理をかたる,というかたちが牧歌であって,都市生活があるていどランジュクした時代に,それに対する批判から,田園へかえれとか,昔の黄金時代へのあこがれをうたった。これのバリエーションとして『乞食オペラ』のように,ドロボーや浮浪人が真理をかたり,政治・社会の腐敗への批判となっている。また山下清とか,ドストエフスキーやフォークナーにあらわれるような,白痴とか気ちがいのみが真理をしっている,という発想。そしてロマン派以後あらわれたのが,子どものくもりのない目がおとなのくもりある目よりも,真理をみる。(5)

ジョイスがホメロスを下じきにしたように,とくに『鏡の国』は,ナースリー・ライムを下じきにしている。そしてナースリー・ライムそのものが,かつては風刺だったものが,のちに意味がおぼろげになった。しかし音や形のおもしろさゆえに,子ども部屋で愛されつづけた。これを目ざめさせれば,かんたんに牧歌となる。また,そのコトバのおもしろさゆえに,子どもに対して,コトバに対する意識をよびさまさせる時期がある。この二つのことが,アリスの第一主題,第二主題として,からまりあって,発展していく。

エンプソンは,むしろ,彼の社会学といわれる『牧歌のバリエーション』のアリス論では,アリスの夢のイメージのシンボルをよみとることに熱中し,精神分析的文芸批評の最高にたっしている。たとえば,アリスは,自分が泣いたその涙の洪水で,いつのまにか地下の出にくい部屋から出てしまっている。その涙,すなわち塩水は,さいしょの生命が生じた海であり,また母親から生まれたときの羊水でもある。個体発生は系統発生をくりかえす。気がついてみると,ノアの箱舟をひっくりかえしたように,いろんな鳥獣が水からあがって,土手にあつまっている。そのなかにはドードーのような絶滅した巨鳥がいたり,挿絵には類人猿の頭が気味わるくえがかれている。そして一同は,ぬれた体をかわかすために,コーカス・レース Caucus Race という競争をはじめるが,これがまたヨーイドンもなしに,かってにはしりだして,かってにやめる妙な競争で,いつのまにか race が,当時さわがれていた進化論の種族もんだいを暗示している。この競争は,弱肉強食の生存競争で,平等主義の反対である。しかし,このレッセ・フェールは,さいごには,だれもかれも優勝して,ホービをもらうことになり,極端な平等主義となる。

動物がことばをしゃべるのは童話ではいつもの手だが,なぜ子どもがよろこぶかというと,動物とは感情的に負担を感じることなしに仲よくなれるからだ,とエンプソンはいっている。そしてオトナのように礼儀をおしつけたりしない。しかしイソップいらい,動物は教訓的目的につかわれてきたことも事実で,アリスに対して,動物たちはみんな,おしえさとしたり,命令したりする調子でしゃべるので,これがかえって,イソップ伝統のパロディーになっている。そして彼らのノンセンスな行動は,そのままオトナの社会のオロカシサである。

アリスが,しょっちゅう大きくなったり,小さくなったりしていることについて,エンプソンは,小さいものは,観察者として,対象に変化をおよぼさずに,観察できるといっている。また子どもは,オトナから見えないほど小さければいいとおもっている,またオトナをやっつけるほど大きくなりたいとも,おもっている。またナゾナゾや,ノンセンス・ソングが出てくるのは,それは暗号で,オトナが子どもから隠したり,子どもがオトナから隠したりするときにつかわれる,というわけで子どもは興味をもつ。

さいごに,少女時代の死を,性のめざめとして,ルーイス・キャロルは一生独身でとおした人だが,いたるところでおそれている,とエンプソンはふかくつっこんでいる。アリスの自己完結性も,しょせん,はかない夢としておわらされている。(6)

ここで,ぼくはどうしても,「昭和日本の無類に賢い少女」の成長についてかいた石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(7)はどうだろう? 彼女たちのあらわした『子どもと文学』で児童文学の本質をファンタジーとして,日本の児童文学のよわさを,ファンタジーを非常にあいまいなものと考えた点においた。ファンタジーということばは「目に見えるようにすること」といういみのギリシャ語だそうで,「児童文学でファンタジーという場合は,非現実をとりあつかいながら,目に見える,具体的な,一つの世界をつくりあげている物語でなければなりません。そうでなければ,子どもには理解できない」なぜなら「ファンタジーを生むためには,子どもは,小型のおとなではないという発見が必要でした」。すなわち「子どもの具体的な空想力や子どもらしい感受性にみちびかれて」ともに空想の世界にはいりこむことだ,といっている。(8)

それでは,そういう子どもの心理の特長はなにか? アリスや,石井桃子訳すところの『熊のプーさん』,それから創作の『ノンちゃん雲に乗る』などの作品において,きわめて注意をひく点は,メタ言語のおおいこと,ことばや認識のプロセスについて,一段たかいところから,ふりかえって見る態度である。

アリスでは,学校でなにをならってるのときくと,Reeling and Writhing というような Reading and Writing のシャレから,バイシンインというようなむずかしいことばをしっていること,一日おきにジャムをくれる約束,きのうのジャムとあしたのジャムで,ジャムをたべるきょうは永遠にめぐってこないこと,I see nobody on the road というと,王さまは,わしも Nobody が見えるような目がほしいといったことなど,子どもがよろこぶものである。

『熊のプーさん』のはじまりのところでは,

むかし,むかし,大むかし,まだまだむかし,この前の金曜日ごろのことなんだがね,熊のプーさんは,森のなかでただ一人,サンダースと名乗って,住んでいましたとさ。
「名乗るって,なんのこと?」とクリストファー・ロビンが聞きました。
「金ピカの字で,そういう名前を書いてある看板が,玄関の戸の上に乗っかってて,その下に住んでたんだ」
「プーが,よくわかんなかったんだもの」と,クリストファー・ロビンは言いました。……

子どもの「時間の意識」はいつごろからか? はじめて曜日のなまえをおぼえたころの,ふしぎな気持。

「昔,昔,あるところにね」とおかあさんははじめました。
「おかあさん,どのくらい昔?」
「おじいちゃんのおとうさんが子供のころ」
そのとき,なんのかげんか,真っ暗い部屋に寝ていたノンちゃんの目に,一筋の白い光がさっと流れたのです。それは,ほかの人にわかりやすくいうならば,ノンちゃんを中心にして,前後にのびている,長いはてしない道でした。そして,道の一方はまっ暗いところへつづき……まっ暗くなる少し手まえのほのぐらいところに,なにか──生き物です。人間もまじっていました──が,ごよごよたくさん動いていました。そのなかに,チョンマゲにゆった小さい子がただひとり,地面にしゃがむようなかっこうで,余念なくあそんでいる姿が,これだけははっきりノンちゃんの目にうつりました。……いつのまにかノンちゃんは,しっかりおかあさんにつかまっていました。おかあさんが逃げだしてしまいそうな気がしたのです(9)

名まえも,ふしぎなものである。名まえは,何かを意味しなくてはならないものなのだろうか? アリスとハンプティー・ダンプティーの問答はそのことについてだ。ぼくがはじめてしった大田くんは,いやなやつだった。こんどは別の大田という子にあったが,彼の名まえが大田ときいて,警戒せずにはいられなかった経験がある。プーさんの友だちのコブタは,ブナの木にすんでいたが,そのすぐわきには一枚のわれた板があって

トオリヌケ キ

とかいてあった。それはコブタのおじいさんからつたわったもので,「トオリヌケ・キンジ」の略で,それは「トオリヌケ・キンジロウ」の略だ,というふうに,いろいろかんがえる材料をあたえてくれる。しかし,なんといってもノンちゃんがびっくりしたのは,

ノンちゃんにカタカナが読めたのですから,五つの初春だったでしょう。東京にめずらしい大雪が降りました。ノンちゃんは……こたつにあたって,勉強ごっこをしていました。
ノンちゃんは新聞をながめて,いいました。「おかあさん,きょうはおんなじ字,いっぱいあるのね。ほら,これもこれもおんなじ字」
おかあさんは,ノンちゃんの手もとをのぞきこんで,
「ああ,そうね,ユキって字よ。こんなにたくさん雪がふったでしょう? だから,そのことが書いてあるの」それから,おかあさんは急ににっこりして,「ノンちゃんそれね,おかあさんの字よ。おかあさんの名まえ,その字を書くのよ」
そして,おかあさんは,ノンちゃんが持ってあそんでいた帳面に,田代雪子とタシロユキコという字を,二列にならべて書きました。
そのとき,ノンちゃんはなんともいえない,ふしぎな気もちにうたれ,その字を見つめて,じっとこたつによりかかっていました。……おかあさんは,ノンちゃんのおかあさんで,世界じゅう,どこへいっても「うちのおかあさん」「あたしのおかあさん」ですむものと思っていました。
けれど,おかあさんは……ほんとは「田代雪子」さんという人だったのです。……それはノンちゃんにとって大きな発見でした。そのことのあって以来,それまで一つだったおかあさんとノンちゃんのあいだに,すきまができました……(10)

シンボルの夜明けについて,ヘレン・ケラーの自叙伝におとらぬ,叙述ではないだろうか。

つまり,ぼくがいいたいのは,子どもは,物や行動の世界に住むとおなじく,あるいはそれ以上,シンボルのふしぎな世界にすんでいる。天井にロバの木目が見えていたり,エンピツのHBというのは Helpful Bear の略だといわれると,ほんとにそうかしら,ふしぎな気もちになってしまう。シンボル能力こそ,人間を人間たらしめているといった,スーザン・ランガーは,子どものとき,机が顔をしていた,思い出をかいている。

ファンタジーの効用のだいじな点として,知識の面とはべつに「子どもたちの想像力を刺げきし,驚異の念をいだかせ,老いこませないことでしょう」と石井桃子はいっている。そして,その源泉として oral tradition,おかあさんから赤ちゃんへとかたりつたえられた,コトバのひびきをたいせつにおもっている。たとえばイギリスには Mother Goose のナースリー・ライムがあるが,日本ではわらべ歌がほろびかかっていることを,なげいている(11)。彼女の『ノンちゃん』では,病院にはいったとき白い服をきて「カンゴクさん」がいたこと,おにいちゃんは「よっぴいてひょうとはなつ」だの「海にさっとぞ散ったりける」だの,へんなことばかりおぼえていること,「ボクガオオキクナッタナラ」というのをまちがえて「ボクガオオキクナッタラナ」とうたっていたのをなおしてやれなかったこと,級長のしごとは「ダリ,ミギッ! ダリ,ミギッ!」と号令をかけること,おとうさんが「それがぼくのシュギでね」というとだれも反対しなくなること,それからおかあさんからきいた耳学問,たとえば「むこうから目色のかわった犬が,舌をだらんとたらして,わき目もふらずにやってきたら」狂犬かもしれないことなど,子どもの symbol consciousness の発達をえがきながら同時に,わらべ歌ときれてしまった昭和の時点において,口づたえの重要さを説いている。(1962年)

(1)
石井桃子他『子どもと文学』(東京,中央公論社,1960年)11−14頁。
(2)
『子どもと文学』70−71頁。
(3)
A.A. Milne, Winnie-the-Pooh, 石井桃子訳『熊のプーさん』(東京,岩波書店,1940年)。
(4)
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland and Througt the Looking Glass, With all the original illustrations by Sir John Tenniel.『ふしぎの国のアリス』岩崎民平訳,『鏡の国のアリス』岡田忠軒訳,どちらも角川文庫,これらの訳を借用したり,参考にした。
(5)
William Empson, Some Versions of Pastoral.
(6)
William Empson, Chap.7.
(7)
石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(東京,光文社,1951年)。
(8)
『子どもと文学』209−213頁。
(9)
『ノンちゃん』79−80頁。
(10)
『ノンちゃん』77−79頁。
(11)
『子どもと文学』175−181頁。

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