詩のコトバと日常のコトバ

投稿日 2013年2月28日

 われわれ散文的な人間には詩はわからない。リズムとかライムとかヒユとか言われるともうお手あげだ,という声をよく聞く。
 詩だけにある特殊な言い方と見ることに反対する。日常のハナシにおいて,コーフンすれば早口になり,慎重になれば一語一語ゆっくり上げ足をとられないようにしゃべる,重要なことは知らず知らずくりかえす——これがリズムだ。安保反対のデモのなかから,きわめて自然発生的にアンポ+ハンタイというかけ声がおこり,前半アンポと後半ハンタイが,二つにわかれてかけあいでいわれるようになった現象は,詩の発生はかくもあったろうとおもわせる。勤務評定にはどうしても反対です,とは言わないで,「絶対反対」だという。タイという音がライムして反対の感じを強めるからだ。暑くてまったく死にそうだ,と言ったって誰も医者を呼ぼうとはしないだろう。それがヒユなことを知っているからだ。それじゃあまた,ユーラク町で逢いましょう,なんて言ってニヤニヤしている時に,われわれはエリオットでなくても,アルージョンをたのしんでいる。詩は日常のこういう言葉づかいを,引きのばし,定着したものである。

Do not go gentle into that good night. 1

 ディラン・トマスは彼のカミナリ・オヤジであった父親が死ぬ前とてもおとなしくなってしまったのがいやだった。Good night オヤスミナサイ,と言ってみんなねてしまうあの睡眠と休息の良い夜,という意味からずらして,あの永遠の休らぎである死の状態,それにおとなしく入ってしまってはいけない。最後には死ぬにしても,生きてるかぎり全力をつくして死に抵抗するべきだという,ここで good night の good は必ずしも良くない,人々は good night と言うが。Good のイミが字引のイミより,ずっと移し変えられ,ここでは,ほとんど正反対の否定的なイミで使われている,逆説となっている。現代詩にはこれ式の乱暴な言い方が多くて,ついていけないと言う人が多い。しかし彼らもワーズワスのウェストミンスター・ブリッジのソネットならわかると言う。

This City now doth, like a garment, wear
The beauty of the morning…
(この都市はいまや,衣のように
朝の美をまとう…)

しかしここにも言葉の乱暴な使い方があった。モンブランとかスノウデンとかの山々こそ「朝の美をまとう」のにふさわしいのであって,ロンドンのような汚い町とはふつう一緒に使わない言葉なのだ。しかしクリアンス・ブルックスは,この二つが結びついたオドロキが,このソネットの成功のもとになっている,と指摘する。そして City も汚いだけでなく,生き生きした美しい瞬間もありうるし,「朝の美」も自然の山や岩や谷ばかりでなくてロンドンのような人工的な都市にも適用できることになり,これら二つの語のイミが移し変えられ,ひろげられた。2
 日本の詩でも「岩にしみ入るセミの声」といったとき,「しみ入る」をこのように拡張解釈して使えたことは,アバンガルドであったにちがいない。しかし日常われわれが「健康美人」「優等生」「おめでたい」「どうせ私はバカですよ」などと皮肉にいっているのが,詩における言葉の意味の横スベリや逆説の原型なのである。

 現代詩においては視覚的イメジが強調される。たとえば T. S. エリオット

I should have been a pair of ragged claws
Scuttling across the floor of silent seas. 3
(いっそのことギザギザのハサミになって
静かな海の床でもカタカタ走りまわった方がましだった)

T. E. ヒュームは「詩のイメジは単なる装飾でない。それは正に直観的言語の真髄であるのだ」と言ったが4,この場合イメジはメタファーのことを指していると考えられる。上の例で言えば,やるせない心を,カニにでもなった方がよかったと,たとえている。ヒューム以来,メタファーが詩の本質であることは常識になっていて,それ故にイメジのことがやかましく言われたりするが,メタファーを言語一般の本質としてでなく,詩のみの本質として意識しているために,ある詩人たちの作品は,お上品で弱々しく遊離した感じをあたえる。また一般読者の側からすれば,そんな詩は面白くもないし,無くたっていいさ,と言われてもしょうがない。じつはヒューム自身「ふつうのコトバは本質的に不正確だ」とハナシコトバを落し「ただ新しいメタファーによってのみ正確にされる」と詩のコトバをもちあげている5。ここでせっかくの名論も,死んだメタファーと生きたメタファーの区別をやかましくいう伝統的な修辞学,文学を日常生活と鋭く区別して self-glorify するロマン派にもどっている。さらにこのマチガイは,アリストテレスにまでさかのぼることができる。
 たしかにアリストテレスのいうように「すぐれて最大のものはメタファーをあやつる能力だ。」しかし「これだけは決して人に伝えることができない。それは天才のしるしである。なぜなら良いメタファーをつくるには類似を見る目がなくてはならない」と言ったことに対して I. A. リチャーズは『修辞学の哲学』(1936)において3つの点から反対している。
 (1)「類似を見る目」が天才にだけしかないのはヘンだ。われわれが生きて,しゃべっているのは,この類似を見る目があるから可能なのだ。この世の中に昨日と同じことは今日は絶対くりかえして起こり得ないし,同じものも存在し得ない。類似の経験があるにすぎない。去年の私と今日の私では,着物もちがえば,シワもふえている,細胞なんか完全に入れかわっているので同じ体とも言えない,場所がちがえばちがった顔つきをしているだろう,それにもかかわらず「やあ,ちっとも変わってないなあ!」と言うのは,今のシゲキの中に過去の類似の経験を見ているからだ。しかも,去年と似てるね,とは言わずに,同じだなあ,と言うのはメタファーである。あるいは曲り角に新しい果物屋ができた,この前に来たときとはシゲキ配置がすっかりちがっている,にもかかわらず,ああここを曲がるんだ,とわかるのは,新しい経験に過去の類似を見ている。このように類似を見る目がなければ,一刻といえども危っかしくて生きていけない。ヒヨコでさえも,一度食べて嫌な味だった黒白のシマのイモムシは,二度と食べようとしないのが,ロイド・モーガン教授の有名な観察である。このようにして,われわれの一番カンタンな知覚の中に,類似を見るメタファーがはたらいている。目,耳,そのた感覚に対するすべての新しいシゲキは,その入ってくる瞬間に過去における類似の経験と比較され分類される。これが意味の生れてくる原型だ。
 (2)「これだけは決して人に伝えることができない」というのもマチガイである。われわれ自身の使うコトバを通して,針の「目」,ビンの「口」,「暖い」微笑,「切れる」頭などをマチガッテ文字どおり受けとらないことを習う。同時に,自分でもナベの「手」,あの人は「冷たい」など意識せずに使うことができるようになっている。とくに興味あることは,子供の方が大人より圧倒的に早く外国語をマスターできるのは,子供の方が「手持の単語」と単語の組合せ,すなわちメタファーにおいて,より自由だからだという。
 (3) とにかくメタファーに関する最大の迷信は,メタファーはふつうの言葉づかいからの脱線であり,例外であり,特殊な,つけたしだ,という考えである。これに対して,メタファーこそ,脱線どころか,言語を進歩発展させるレールである,Metaphor is the omnipresent principle of language.6 これがなかったら,ごくふつうの日常会話も,たちどころにストップしてしまう。たとえば「手持ちの単語」単語を手に持ってるわけではない。それなら「頭の中にある単語」といったらどうだろう? 頭を解剖したって単語は出てこない。このようにメタファーを使って,実体があるかの如くしないと,ハナシが進まない。「ハナシ」にしても,馬や自動車のような実体がないのに「進めたり」「ストップ」したり,司会者は「交通整理」までやる。実体のあるものでも,ナベの「手」,ヤカンの「口」,イスの「背」,それから物に対する感じ—「ガサツイタ」声,「ガサツイタ」人物,「太い声」。「あの人は腹が太い」——こんなふうに一つの物の名を他の物に借りるメタファーなしでは「動きがとれない。」

Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
(現在と過去は
どちらも多分 未来の中にあり
未来は過去の中に含まれている)
         —T. S. Eliot, East Coaker

 たえず新しいシゲキ,経験がわれわれにおそいかかる,それに対してわれわれは,過去の「あれと同じだ」とか「まるで〜みたい」というふうに,過去との比較によって新しいものを分類し,受けとめている。われわれは,リチャーズ博士によれば,寒暖計とちがって,過去における似たような経験が現在の反応の性格を規定する。過去を使って,前へ進む。ここに意味作用の原型がある。われわれのハナシというものは,つねに,何か新しいことを指摘しようとしている。新しいものには名前がない,そこでその新しい対象を思い起させるもう一つ別のものの名前を借りることによって,限りある言葉で,限りない現実を言い表わせる。長いこと学者たちは,すべての抽象語は,もとは具体的な物のメタファーから発していることを,指摘してきた。言葉がある特定の対象にしばられていることからハナレテ,一般性,抽象性を獲得するのは,メタファーとして数多くの前後関係において使われることによって,そうなるのだ。
 スーザン・ランガー女史の『あたらしいカギの哲学』(1942)から説明をかりれば,「燃え上る」というとき,われわれは火のことを話しているのだとわかる。しかし「王の怒りが燃え上った」という時,前後関係からして,火が燃えたとは思わない。火は王の怒りの状態を表わすシンボルと考える。あるいは “The brook runs swiftly,” では足の動きはなくて,波が立って動いていく。”A rumor runs the town,” と言えば,足も波も感じない。 “A fence runs round the barnyard,” と言ったら,場所さえも変らない。かつて,これら三つの “run” はみんなメタファーであった(どれが一番もとの文字どおりの使い方かは知ることができないが)。そしていま “run” は course を describe する抽象性を獲得している。こんなふうにしてメタファーは言語を動かしている法則であり,言語の本質は「関係」を表わすということであるが,これはメタファーによってはじめて可能となった。「たえず現実における新しい,抽象可能なカタチを示し,たえず,古い,抽象化された概念を集積しては.一般的な語イを増やしているのである。」そしてもはや「燃える思い」や “So the story runs,” のときに火や足のことは思わなくなっている。これらは「死んだ」あるいは「色あせた」メタファーと呼ばれるが,メタファーが色あせることにより,イミが安定し,科学の言語が可能になる。7
 イミのゆれ巾の点からいえば,科学は最小,詩が最大の両極にあり,日常の言語がその中間にある。8
 このように見てくると,社会における詩人の役割というものが,よく言われるように,言語をつねに新しく保ち,いかなる新しい思想をもになえるように準備しておくことだ。新しいメタファーに専念することにより,確実に言える範囲を拡げ,安定した語イを増やし,新しい現実を扱いやすくする。詩人が前衛であるとは,こういう意味である。
 しかもその前衛の武器であるメタファーは,われわれが毎日しらずしらず使っている,手慣れたものである。ロマン派的 self-glorification のつづきで,詩人が言語をゆたかにする,ということはじつにしばしばくりかえされてきた。しかし,民衆が無意識的に使っている良い表現,日常のコトバに潜在している発展の可能性を,詩人が引っぱり出し,意識的に定着する,という逆の関係をもっと強調する必要がある。9
 書かれコトバは,用法やイミが,どうしても固定する(それは良い事でもあるが),だんだん自由さを失って,動脈硬化を起す。それに反して話されているコトバは,文法や,right usage により少なくしばられ,新しい結合,新しいメタファーが,自由に,続々と生産されている。これは詩人が使うべき宝庫である。シェークスピアは決して自分の言語を発明しなかった——彼はカッパライの名人である。あのものすごいG. M. ホプキンズのネジ曲げた言葉づかいも,じつはハナシ・コトバにおいては平気で行われているのを,紙の上に定着した。E. E. カミングズのヘンテコリンな行の区切りや句読点は,ハナシ・コトバの tone をもっとも忠実に再現しようと努力している。そしてわれわれは,会話と古典からのカッパライの大名人,エリオットを持つ。彼の詩は,現代のロンドンに,ダンテの地獄を見る,というふうに大きなメタファーになっている。過去を道具にして前へ進む。彼の伝統論と「四つの四重奏」は,より大きなひろがりにおけるメタファー論と考えることができる。われわれとしては,詩をよむことは,生来もっているメタファー能力を体操させることであり,健康上必要なことである。

  1. Dylan Thomas, “Do not go gentle into that good night.”
  2. Cleanth Brooks, The Well-Wrought Urn (New York: Harcourt, Brace and Company, 1947), Chapter I.
  3. T. S. Eliot, “The Love Song of J. Alfred Prufrock.”
  4. T. E. Hulme, Speculations, p.135.
  5. Ibid., pp.137-139.
  6. I.A. Richards, The Philosophy of Rhetoric, p.92.
  7. Susanne K. Langer, Philosophy in a New Key (New York: The New American Library, 1952), pp.113-114.
  8. Richards, p.48.

(「英文法研究」1958年8月号)

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