はじめにことばがあった?

投稿日 2013年2月28日

2002年6月9日のGDM『教育セミナー』のアンケートを見るかぎりでは,わたしの「講演:はじめにことばがあった──道具としての英語の意味を考える」の意図はつたわったように思える。しかし松川和子さんがもっと聞きたいというので,ここから先はわたしたちの内部的な話になる。それはどんな種類の英語をわたしたちは教えたいか(what to teach)の問題であって,いかに教えるか(how to teach)は影が薄くなる。あるいはなぜ英語を教えるか(why to teach)という議論の紛糾しやすい領域にはいる。

わたしたちはEnglish Through Pictures (EP)を使うことを選んでしまった。あるいはGDMをいいですねと思いながら,わたしたちのようにはまりこんでしまわないひとたちがいる。その差は根深いところにあって,議論で解決できるようなものではない。それぞれの立場が自分をはっきりさせると同時に,そうでない立場を否定しないことしかない。

EPはBASIC Englishにもとづいている。「ほとんど」すべてのことは850語でいえるとはいえ,BASICに得意な領域と不得意な領域がある。道具の例でいえば,ナイフよりもハサミを使った方がよい場合がある。「ベーシックの価値はどんなタイプの文章を訳すかで大幅に異なってくる」とリチャーズはBasic in Teaching: East and West(1935)でいっている。

もっとも役に立たないのは,特定の地域的な対象物とか活動についての感情を思い出して,特定の名前を多数つかわなくてはならない場合だ。というわけで,クリケットの試合についての感傷的な思い出などは考え得る最悪の選択であろう。ギンバイカの茂みで歌うムネアカヒワについてベーシックで一言いうのも有益な練習とはいえない。(p.88)

「ベーシックが最も教育的に使われる場合は,国際的コミュニケーション,旅行,ビジネス以外では,いささか抽象的なことをあつかう説明的あるいは議論的な散文だ」とリチャーズはいっている(p.87)。

わたしたちはそのような道具でことをはじめた。そのような道具でひらいていく領域こそ,今の日本の教育でもっときちんとやらなくてはならないものだと,わたしは思う。オルダス・ハクスリーが理想郷をえがいた『島』では土着のパラ語と英語の2言語が平行して使われている。

パラ語をはなすのは料理のさいちゅうとか,おかしな話をするときとか,恋について語るか実践しているときだ。(ついでながら,われわれは東南アジアでもっとも豊富な,エロティックでセンチメンタルな語彙をもっている)。しかし,商業とか,科学,思考的哲学の問題になると,われわれはたいてい英語で話す。そして書くときは,たいていのひとは英語の方を好む。(片桐ユズル訳,人文書院,1980年,p. 151)

つぎに「道具としての英語」とはどういうことなのか? 自分の言いたいことを言うために使う道具である? 道具でない英語とは,どのようなものであったか? 英語が主人で,自分がこき使われていた? たとえば試験とか世間的なカッコウヨサなどで,英語がモノサシで自分がそれによって計られていた? 今度は自分が主人になって,英語をこき使いたい? しかし歴史は,使われていた者がつぎに主人になる話でいっぱいだ。自分の便利のためにした発明に,うっかりしていると今度は自分が支配されている。ヨハネ伝の出だしの「ことば」を「道具」におきかえてみる:

はじめに道具があった。道具はなかみとの関係において存在し,なかみをきめた。なかみは道具とともに成長した。

もっとも有名な例は活字印刷という道具によってヒトのこころがどう変わったか,という話がある。もっと些細にみえる例は,19世紀末にはじまった自転車の普及による空間移動の自由が「個人」の意識をつよめ,女性の解放を促進し,同時にコダック・カメラにより誰でも自分のイメージを保存できることが「自尊心」の発達をたすけた。この話は Roger Burlingame, Men and Machines, 1,000-word levelのLadder Editionとして洋販から出ている。リライトしたAdolph Myersは長いことインドでBASIC運動にたずさわっていたひとで,さすがによみやすく書きなおしてある。必要は発明の母であるが,次の段階で発明がヒトを変える。

考古学者は石器から原人の脳活動を推定し,そのような道具を使うことにより脳活動がどのように進化したかを論じる。もっと前の段階をおもえば,手足が移動の道具としてあったが,空間移動をすることによって脳活動が発展した。人工知能の研究においても,知能とは,人間がロボットにつめこむのではなく,ロボットの身体(道具)と環境の相互作用から,現れてくるもののようだ(GDM Bulletin, No.53, 2001, pp. 4−5)。

ヒトはまず口鼻目耳手足がある。これらは道具だ。しかしこれらの道具を意のままに使えるようになるまえに,どの道具は何ができるか知るための長い実験期間がある。赤ちゃんの場合,自分の手足を使ってできることと,自分がしたいとおもうこととのあいだに,それほどの差はない。しかしおとなの場合,自分の能力と欲求のあいだの差が大きすぎると病的になったりする。わたしたちが母語でかんがえることを英語という道具であらわそうというのは,精神病のおとなに似ている。

英語という道具には何ができるだろうか?

EP1, p.98で, The milk is good. John is happy. という文がある。むかしはここで,The milk is making John happy. というようにmakeの使役形を使って,ナントカmakes me happyのようなことを言って,たのしんだものだった。しかし最近わたしはこれをしない。というのは,これがカギとなって感情の世界が開けられると,いままでキチンといえていた文章構造が一気にくずされ, broken Englishの大洪水になるからだ。これは英語という道具では扱わない方がよい世界だ。

教育テレビで「未来への教室」という番組があり,2002年5月だかにヒーラット・バーメイ(Geerat Vermeij, 1946−)という盲目の科学者が授業をした。彼は指先でいろいろな貝類にさわり,貝類の進化について説をたてた。日本の中学生からの質問で「目が不自由で一番困ることは何ですか?」 バーメイ先生の答え:

目が不自由だと,できないことがたくさんあります。まず,車の運転ができません。それから図書館に行っても,自分が欲しい本を一人で見つけることができません。…私にはできないことがたくさんあります。でも私には,できることもまた,いっぱいあります。できないことを考えるより,できることをたくさん考えるようにしています。

英語は「日本人と日本語の持つ弱点を補う素質と性格を」持っている。と犬養道子は朝日新聞2002年7月17日の夕刊でいっている。前号で引用したリチャーズの原文を最後に見てほしい。

Thus a sentimental reverie over a cricket-match would be the worst example we could choose, and to put even a simple remark about a linnet fluting in a myrtle bush into Basic would not be a profitable exercise.

──GDM英語教授法研究会西日本支部ニューズ,Nos. 342 & 343(2002年8月 & 9−10月)