「自発性」について,日ごろ考えていることや感じていることを書いてほしいと『向上』編集部にたのまれたので,原稿を書いているが,これは自発的な行為かどうか? ながいこと大学で教えてきて,「自発性」をひきだすこととか,何かを「自発的」にしてもらうことには失敗してきたとおもう。特に「自由」とか「自発的」とかにこだわっていた昔には。たぶんそういうことをあきらめた最近は多少ましになってきたとおもう。
これはどういうことか? 「自由」とか「自発的」ということは,ものごとのやり方,『手段』であって,『目的』ではありえない。
あるいは,ひとの自発性を尊重するあまり,自分がじつにつまらない思いをしてきた。しかし自分の自発性を犠牲にしてつきあっているかぎり,相手がのびのびとできるはずがない。
こういった混乱は,おしつけを憎むあまり,おしつけに対する「反動」として出てきた。ふつう大ざっぱにシゲキに対して「反応」するとおもわれているが,アルフレッド・コージブスキーやF.M.アレクサンダーにならってもうすこし詳しく見てみると,条件反射みたいに,無意識的に自動的にシゲキに対して「反動」していることが多い。たとえば親とか教師とか,いわゆる権威に対して「反動」するから,その必要のないときまで,いつも反抗してしまう。あるいは今までやってきたことの成果がおもいどうりに出ないと,「すべて」を否定して出直さなくてはならないと思い込む。動・反動の振り子運動をくりかえすかぎり,一歩も先へ行かない。
たとえば,わたしの専門領域の英語教育の流れでいうと,思ったほど効果があがらないことがいつも問題になってきた。1950年代から60年代にかけて発音と文型の口頭練習をするオーラル・アプローチがよいこととされた。
その方法の基礎であった構造言語学が「否定」され,変形文法がはやると今度は「文法」がたいせつなことになって,どちらかというと昔ながらの訳読主義っぽくなったしまった。つぎに言語の規則性などどうでもよくなって,状況にあわせて 「コミュニケーション」さえできればよいということで,言語材料はなし崩し的にあつかわれるようになってきた。
それらの批判のあいだにときどき見え隠れしながら,本を読んでいたから応用がきいたとか,きっちり論理的にしゃべったから尊敬されたとか,海外で活躍したひとたちが自分のうけた英語教育を肯定的にふりかえった感想があったが,ひとびとの意識には入りにくかったようだ。動・反動的に見る習慣がいかに強いかということだ。
F.M.アレクサンダーの発見や,コージブスキーの一般意味論によれば,シゲキに対してすぐに反動するのではなく,ちょっと待ってみると,習慣的・無意識的・自動的・反射っぽい動きでなくて,もっといろいろな動きの可能性が浮上してきて,そこから選んで自主的な「反応」ができるようになるという。条件反射的世界に住む動物たちと人間のちがいがここにある,と大ざっぱにいえるかもしれない。伝統的な教育法に「反動する」かたちで,自発性を重んじる教育が出てくる場合には,それまで行われてきたことの全否定をする傾向にある。わたしはいわゆる「進歩主義教育」にあこがれていたが,1959-60年にフルブライトの英語教育プログラムでサンフランシスコ州立大学に留学したときに驚いたことは,進歩主義教育は外国語を無視したという話を現地の先生から聞いた。外国語は暗記ものだから,進歩主義教育のなかには入れてもらえないのだ。
図式はこうなる。ひとたび「自発的に」外国語をならいたいときめたら,あとは自発性をすてて,ひたすら無意識的習慣になり自動的に外国語が口をついて出てくるようになるまで,機械的練習をくりかえし,丸暗記しなくてはならない。
言語の学習は「習慣形成」だとふつう思われている。しかし外国語の学習は母語の習慣をやめて,新しい動きを実験し,試行錯誤をしてみることから始まる。母語の獲得においてさえも,子どもを観察してわかることは,たんなる丸暗記による習慣形成をおこなっているのではない。かれらはおとなを観察し,それに基づいて,ある音声を発し,それに対して欲求が満足されたとか,されなかったとか,おとながよろこんだとか,いやがったとか,そういう実験結果によって,新しい言い方を採用したり,しなかったり,軌道修正をしたりしている。
結局,なにを言いたいかというと,自発性というものは大きなかたまりとしてあるのではなく,プロセスの一瞬一瞬の動きの選択肢としてあることに気づくよりほかはない。
『向上』No. 1072(2001年6月)より