於:1994年4月28日〜5月1日,ロサンゼルス
大会前夜 宿泊先のハルさん宅にて
- 中川
- ハクスリー生誕百年祭について,いま思われていることをお聞きしたいのですが……
- 片桐
- 生誕百年祭について,いま思っていること? ……いまこのプログラムを読んで,いままではボーとしてて気がつかなかったけども,驚いたのは「コンシャス・コンセプション」という考えで……。この百年祭っていうのは,Our Ultimate Investment──子どもこそ私たちの将来に対する究極の一番もとになるもんだ──というような考えで,子どもをどうしたらいいかというようなテーマだと思っていたんですが,いまびっくりしたのはね,コンシャス・コンセプションといって,つまり妊娠する瞬間を意識しましょうというようなことを言ってるわけですよね。それで,これはまさにオルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』という未来小説で書いていた,ものすごく悲観的な地獄,未来の地獄みたいなこと,つまり遺伝子コントロールとかさ,そういうことで,ひどい世界になるという予言をしてるけど,それに対抗するにはどうするかっていったら,親というか女の人が非常に自覚的になって,妊娠の瞬間を自覚できるようになるまで高まってなきゃいけないということでしょう。それでその前には,妊娠するぞということを決めて,子どもをつくりますということを決めている段階があるわけよね。だけど,いままでは妊娠なんてのは偶然にしか起こらないということになっていたことを,自覚的にそこの道筋をやっていくということで,ものすごく……大変なことだよ(笑)。大変なことですよ,これは。
だから,たとえばフロイトは幼児期が大切だってことを言ってね,幼児期のいろんなことがその後を決定するようなことを言って,これは大筋において認められてきたと思うんだよね。そうすると今度は,それからもうちょっと遡って,生まれる瞬間のいろんなストレスとか,トラウマとか,なんかが問題だということになって,これもまあ,かなり問題らしいということに,人びとは気づき始めたわけだけど,今度は,そっからさらに遡って,お腹のなかにいるときが大切だということ……。これはわりに──いい音楽を聴かせようとか,お母さんはなるべくいい精神状態にいるようにしようとか,そういうふうにしたほうがいいということは──まあそう誰も反対はしないわな。そういうふうに,だんだん遡ってきたわけでしょう。一人の人が生まれて,どういうふうにその人の性格が形づくられていくかということの原因がどんどん,どんどん遡ってきて,ついには,このローラ・ハクスリーの言うようなところまできたわけですよ。ついに妊娠の瞬間まで。しかも,だからその前にはよいセックスをしなきゃいけない,そうしたら,よい子どもが生まれるということにつながるわけだよね。そうすると今度は,よいセックスをするためには……となるわけだけど,ただ単に「よい」と言うとね,なんか道徳的でいやらしくて,そうじゃなくて,もうちょっとアウェアネスをもってというか,もうちょっと自覚をもった生き方をしている人たちが,本当にいいパートナー,赤い糸で結ばれているパートナーと本当に幸福なセックスをして,それでその結果,子どもをつくろうということに決めて,そういういい順番をへていくことで,いい子どもが生まれて・…・ということになるわけでしょう。うーん,これはすごい。……いや,これはやっぱり怒る人がでると思うよ。 - 中川
- どういうことに怒るんですか?
- 片桐
- つまりいままではね,アンコンシャスというか,偶然にまかせていた部分を意識化しようってことについて,ものすごく怒る人が出てくるんですよ。性生活についても,そんなものは本能のままにやっときゃいいんだということで,そこにこういうことをしたらいいですよっていうようなこと言うと,やっぱりそういうことは干渉するべきじゃないと言って,怒った人がいたでしょう。本能イコール自由,あるいは自由イコール無自覚,自覚することは自由を犯すことになる……,意識することは,自由を犯すことになる……
- 中川
- でも,グルジェフ流に言えば,無自覚にやっていることというのは機械的な反応でしかないわけですよね。セックスをするときも,本能じゃなくて機能的な反応パターンみたいなもので……
- 片桐
- そう,そう,だからアレクサンダー・テクニークもそうですね。どの問題も,意識するとたんに,だいたいにおいて自由じゃないということに気がつくでしょう。
- 中川
- 自分がいかに不自由であるかということに……
- 片桐
- うん,そうすると,意識することイコール自分を不自由にするだということになって,だから,意識はしないほうがいいということになって……
- 中川
- でも一過的なものですよね,不自由さを自覚するのは……
- 片桐
- だけど,そこでパニックになって,もうぜんぜん意識しないことにしようと決める人が多いじゃない。……本能といっても,本能はすでにこの環境によっていろいろ条件づけられているでしょう。
- 中川
- だから,いわゆる「本能」イコール「条件づけられた本能」であって,それはむしろ社会的な拘束であって,その条件づけを外すのには意味がありますよね。
- 片桐
- 条件づけを外すのはね。だから条件づけを外すには,条件について自覚しないとダメじゃない。
- 中川
- 社会的な条件づけを外すことで,野生の本能のようなものが甦るとも言えますが……
- 片桐
- と思いますが,そこでちょっとぼくが違うと考えるのは,やっぱり進化の方向みたいなものがあるでしょう。ただの野生じゃなくて,やっぱり洗練された野生というか,進化の方向にそった野生の回復っていうか。進化の方向の逆をいく野生の回復もありえると思うわけ。つまり,わるいパワーの乱用というか,ただパワー・チャクラを野放しにして,パワーだけで争うという,そういうものはやっぱり逆向きの野生の回復じゃないのかなあ。わかんないけど,もし野生というものが,ほっといたら自然に調和的なものになるっていうのなら,そういう野生ならいいんだけどね。でも,ほっといて自然に調和なものになるのかどうか,ちょっとわからない。やっぱりある程度,理性なり意識なりマインドなりのコントロールで,その野生を殺さずに,よいほうのチャネルへ流して,進化するということが,進化だったんじゃないの?
- 中川
- その野生性の回復と,コンシャスネスがどう結びつくんでしょうか?
- 片桐
- でも,あんまり意識とか自覚のほうを出しちゃうと,今度はまた頭でっかちになってしまって,なんかインテリだけを喜ばす議論になるのもイヤだし……
- 中川
- 東洋だったら瞑想の伝統のなかで,意識的に生きるみたいなことはありますよね。でも子どもをつくることとはあまり関係ないですよね。だいたい僧侶は子孫を残さないわけですから……。だから,ローラが言っているようなことは,これまで欠けていたんではないでしょうか?
- 片桐
- どこにもなかったんじゃない──東洋にも西洋にも。あるいはあったとしたら,どっかそれこそプリミティヴな人たちのあいだであったことかもしれない。たとえば,ハクスリーが『島』で言ってる,MACというのがあるでしょう。「ミューチュアル・アドプション・クラブ」(相互養子クラブ)っていうのね。ああいう制度っていうのは,どっかの原始的なカルチャーのなかにあったりしたわけでしょう。あんなのはしたらいいんだけどね。だれに迷惑をかけるわけでもないし,むしろ楽になるわけだし。昔はわりに大家族というか,みんな一緒に住んでたりしたから,そのように自然にやってきたことが,今はできなくなってきたから,つぎはやっぱり意識的にそれを取り返すってことをしなきゃならないわけですよ。
- 中川
- あの仕組みだと,家族の条件づけに染まらないという利点がありますよね。
- 片桐
- それもあるね。いや,そればっかじゃなくて,基本的には親はどんないい親でも,問題親だということでしょう。だから親がどんな善意でも,やっぱりどうしようもなく一種の袋小路に陥ることはあるんだから。
- 中川
- MACはいつごろから始めればよいものでしょうか?
- 片桐
- やっぱり最初の五年ぐらいは大切じゃない。いくつぐらいからしたらいいかは知らないよ。だけど臨時的に必要になることがあると思うのよ。たとえば,親がどっかへ行かなきゃなんないとかね,留守にしなきゃなんないという,そのたびに自然発生的にそういうのは起こるでしょう。だからそれをもうちょっと意識的にやりましょうということだよね。それをもうちょっと自覚的に,緊急事態じゃないときにもさ,もうちょっと遊び心でやっていきましょう,と。あずけられるのはいつも緊急のとき,アンダー・ストレスのときだとしたら,子どもにそういう刷り込みが起こってしまうこともあるわけだし,そうじゃなくて,レジャーとしてさ,行って楽しかったってことがあればね。そういう場所が方々にあればいいんじゃない。
百年祭を終えて──5月1日 ロスアンゼルス空港および機中にて
- 中川
- 昨日までオルダス・ハクスリーの百年祭があったんですけども,それに出られた感想についてうかがいたいのですが……
- 片桐
- 全体をとしてハクスリーの影響がすごく強く,まだいまでも生きつづけているということがとってもよかったですね。
- 中川
- どういうかたちで生きつづけているのでしょうか?
- 片桐
- たとえば,ハクスリーを過去の人として研究するっていうんじゃなくて,ハクスリーがやりたかったことをみんなが引きついで,さらに発展させてやっているという感じでしたね。具体的に言うとね,たとえばハクスリーはサンタバーバラのレクチャー『ヒューマン・シチュエーション』(邦訳『ハクスレーの集中講義』人文書院,1983年)ではね,無意識ということについて,科学の立場から言うと,かなりきわどいことを言ってるわけ。つまり人間の精神みたいなものは,一人一人がもっているんじゃなくて,どっかにあって,そっから一人ひとりやってくるというようなことを,ほのめかしているわけ。それはだけど,今回みなさんが話した研究なんかで,かなりはっきりとしてきたうように思いますね。
- 中川
- チェンバレンの記憶の話とかですか?
- 片桐
- そう,チェンバレンの話なんてのは,その最たるものじゃないですか。
- 中川
- ラム・ダスもきいていましたが,ダイイング・プロジェクトの発展というのがありますね。そういういろんな動きは,もとをただせばハクスリーのところへ帰っていくものでしょうか?
- 片桐
- ハクスリーが考えたんじゃなくて,ほうぼうに散在していたアイディアをハクスリーが集めて,整理して,みんなが使えるかたちにして,供給したと言ったらいいのかな。ハクスリーが考えたものではないんですよね。すでに『チベットの死者の書』にあるとか,あるいはどっかのプリミティヴな文化のなかで行なわれていたことだとか,それまで研究はされていたけど,だれも顧みなかったことだとか
- そういうことを彼が集めて,われわれにわかるような解釈をつけて整理してくれたと言ったらいいのかな。たとえば,サイケデリックについても散発的にいままでいろんな文献はあったり,散発的にあちこちでいろんなことをやってる人はいたんだけど,それをまとめたのはハクスリーだよね。それで一つのムーブメントになっちゃったわけだからね。
- 中川
- 昨日の映画のなかにもありましたよね。映画についての感想はありますか?
- 片桐
- いや映画はねえ,ぼくはもう知ってることばかりですから,むしろハクスリーを知らない人があれを見てどう思うかをぼくが知りたいので……。うーん,たとえばハクスリーの顔を見ててね,一番感じたのは,40年代と50年代でもう顔がぜんぜんちがうわけ。ぼくは50年代以後の顔が好きなんだけど,前のはすごい神経質で,文学者の顔なのね。きっとあれ,メガネを外したせいもあるとおもう。そうすると,ベイツ・メソッドで眼を治したということは,すごくハクスリー自身の全体的あり方にかかわっていたとおもいますね。顔があれだけちがっちゃうんだから……
- 中川
- アレクサンダー・テクニークも関係してるんでしょうね。
- 片桐
- 関係してるでしょう。アレクサンダー・テクニークを受けたのは,ベイツをしたもうちょっと前かな。『ガザに盲いて』を書いたのは1936年くらいかな。あれは書けなかったんだよね。途中でもうほとんど立ち往生してたの。それをアレクサンダー・テクニークを受けたことで,袋小路から出て,書くことができたわけね。それが36年でしょう,本が出たのがね。で,アメリカへきたのが,たぶん37年ぐらいですよね。だから,それでベイツの先生に会ったのは──カリフォルニアで会ったのかなあ……
- 中川
- ラム・ダスは『すばらしい新世界』と『島』を比較して話をしていましたが,それについてはどうでしょうか。
- 片桐
- 結局,今回の会議のテーマが子どもの問題でしょう。それは『すばらしい新世界』の正反対ですよね。『すばらしい新世界』はとにかく遺伝子コントロールをして,試験管ベービーをつくって,という社会でしょう。
- 中川
- そして完全な条件づけをする。
- 片桐
- それに対して今度は試験管ベービーじゃなくて,こちら側が子どもをつくるわけ。『すばらしい新世界』では,あちら側というか,体制が社会のために子どもをつくるわけよね。だけど『島』のテーマっていうのは,社会のための人間じゃなくて,人間の自己実現にあって,だから社会というものは人間一人ひとりの自己実現のためにあるということだよね。要するに『島』は『すばらしい新世界』の反対で,子どもの問題についても,自分でそれぞれの人が自覚的に子どもをつくり,育てましょうということでしょう。ただね共通してるのはね──これが人びとの反発を買うかもしれないところだけど──意識してやろうってことでしょう。それに対して反発するのは,そういうことまで意識的にやるのは,なんかに反してると……
- 中川
- 自然に反してる……
- 片桐
- 自然に反してるとかね,神の意志に反してるとかね。だけど,どっちも意識的にやろうとしてる点は共通してるよね。
- 中川
- それは,クリシュナムルティの影響とか,そういうものではいのですか?
- 片桐
- それは共鳴してたと思いますが,ばけどハクスリーの場合は「影響」というんじゃないと思う。最初からそういうことを大切だと思っていた人だと思いますよ。やっぱり意識ってものは大切というか……頭の人ですからね,ハクスリーは。頭をぜんぜん抜かして,盲目的に放っておけばよくなるってものではない,という立場でしょう。
- 中川
- その頭というのは,考えるとか,そういうレベルだけじゃないですよね。アウェアネスについてはどうでしょう?
- 片桐
- だけど,考えるレベルでもいいんじゃない。それも,きっちと考える。これも,クリシュナムルティがしつこく言ってることでしょう。きちっと考えて,考えぬいて,いいことをやれば,ということでしょう。
- 中川
- 『島』で言っている「アテンション」というのがありますよね。最終的にはそういう面をすごく強調したということはあるんでしょうか? 理性的な思考とアテンションは別のものなのでしょうか?
- 片桐
- 別のものかなあ……? 理性というものを皆さんがあまりにも狭いところに閉じ込めていたでしょう。たとえば言語化できる範囲内というか,あるいはアカデミズムの路線にのる範囲内というか。しかしそれはまちがいで,もうちょっと広いものだとおもう。だからサンタバーバラでの『集中講義』は,それまでいろいろあった発見のなかでアカデミズムに取りあげられなかったものの集大成といったらいいのかもしれないな。
- 中川
- なるほど。彼のそういうレクチャーが「ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント」みたいなものを,すごく刺激して,人間の潜在的可能性に目をむけさせるようになったわけですよね。「エサレン」ができたのも,そういういきさつがありますよね。
- 片桐
- そうだと思う。あのレクチャーだけじゃなくてね,いわゆる〈カンヴァセーション〉というか,友だちとか,お客とか,そういう人たちとの会話がものすごい刺激になっているとおもう。彼が「こういう人がいますよ,会ってごらんなさい」とか,「ここではこういうことやってますよ」と言って,そういうことを紹介するでしょう。いろいろ,そういうことに関係あるとおもう人にね。そういう働きは非常にあったんじゃないですか。まあ,いろんな偶然というか,必然というか,そういうので,たとえば,アラン・ワッツとハクスリーがMITでたまたま会うわけでしょう。それから,MITへ行ったとき,例のハーバードの三人組(ティモシー・リアリー,ラム・ダス,[リチャード・アルパート]ラルフ・メツナ‐)と会うわけでしょう。
- 中川
- そういう人たちはいろいろと影響を受けたわけでしょうか?
- 片桐
- 影響という言い方がちょっと……。ハクスリーはあれをしろ,これをしろと言ったわけじゃなくて,引き合わせたわけだよ,あるいは紹介したわけよ。
- 中川
- 紹介されて実際にやったわけですよね……
- 片桐
- やったというか,あるいはもうすでにやりかけているというか,乗ってるというか,だからますます乗るというか。あるいは,川が集まって,だんだん大きな川になるような……。小さい川のままで砂漠に吸い込まれてしまうんじゃなくて,それをあわせて大きな川になっていくきっかけをつくったというか……。彼は自分を「橋を架ける人」,「ブリッジ・ビルダー」と言っているのよ。だから,たがいにちがった専門,守備範囲のなかでタコツボに入っている人たちのことを紹介して,じゃあタコツボから出たら隣におもしろい人がいるじゃないですか……,まあそういうことをわからせたんですね。
- 中川
- いまだに橋を架けることを生きつづけているわけですよね。ハクスリーが生きているということですね,ある意味では。
- 片桐
- だからその橋というか,その川がね,ますます合流してね,いろんなちがった分野の川が合流して,太い流れになっていくという感じはあるよね。たとえば,エコロジーの人たちと精神世界の人たちは別々だったのが,一緒になってくるというようなのがあるよね。あるいは産婦人科の人と精神世界の人は別々だったのが一緒になってくるでしょう。で,産婦人科とエコロジーと精神世界の人が一緒になってくる。で,文化人類学の人と一緒になってくる……
- 中川
- 今回はまさにそんな感じでしたよね。そこから何かまた新しい発展が起こってくるわけですよね。
- 片桐
- 新しい発展というのかなあ? あのね,新しいものっていうのはないんだよ。すべてはすでにあるの。すでにあって,それが形になってくると言ったらいいのかな。大いなる意識があって,それが個々の人の頭をとおして形をとってくる。昨日だれかが言ってた言葉を使うと,形のないものが形をとってくる,と言ったらいいんじゃないですか。あるいは漠然としたものが具体的になってくるというか。だから,あんまり新しいとか古いとか,そういうことじゃないと思う。新しいものが良くて,古いものが悪いとか,そういうものではないでしょう。だから一番いい例をあげると,『島』は,タントラというか,ああいう古い伝統と,西欧の新しい科学とを結びつけた理想社会でしょう。
- 中川
- 最初の三日間あった「子どもは人類の究極的投資」のカンファレンスはどうでしたか?
- 片桐
- おもしろかった。デービッド・チェンバレンの誕生以前の記憶の話とね,それからミシェル・オダンの水の話,水とホルモンの話はすごくおもしろかった。それからフェルッチが言った話もおもしろかったな。コーヒーが生殖能力に悪いということを言ったじゃない。コーヒー,タバコ,アルコール,それから……。
- 中川
- 妊娠してからの話というのは,これまでもあったかもしれませんが,妊娠前からのものというのは……
- 片桐
- だけど前のほうは,あんまりはっきり今回の会議でも出てなかったんじゃない。もちろん,妊娠する瞬間の母親の,つまり母体の状態が大切だということは言っていたけど……
- 中川
- 「コンシャス・コンセプション」というのは新しい考えですよね。
- 片桐
- うん,だから最初は文字どおりとってさ,コンセプションの瞬間を意識できるような,そういうことかと思ったけど,そこまで厳密に言ってるわけではなくて,アンウォンテッド・チャイルド,欲しくない子どもじゃなくて,ウォンテッド・チャイルド,子どもが欲しくてつくるということだよね。アンウォンテッド・チャイルドが実際はすごく多いということでしょう。
- 中川
- それは悪循環になるわけでしょう。
- 片桐
- そう,アンウォンテッドだった人はまた親になって,不注意な無自覚的なセックスをするからいけないんだ,ということかな。無自覚的なセックスをして,無自覚的に子どもをつくる,すなわちアンウォンテッド・チルドレンをつくる。
ぼくはオダンのホルモンの話がすごくおもしろかった。妊娠やお産のときアドレナリンがどうなるとか……。もう一つのポイントは,記憶というものが脳のなかにあるだけじゃなくて,三つのシステムがあってね,その一つはホルモン・システムなんだ。もう一つは,免疫システムということね。それから麻酔の害のことをすごく言ってたじゃない。麻酔をやったら,その結果生まれた子どもが,ドラッグ・アディクト(薬物中毒)になる可能性は非常に高いということも言ってたよね。それは統計的に,そういうことが出てるからね。だから,日本なんかこれから恐ろしいな。それとオダンの話によれば,工業国では,子どもというか,とくにティーンエイジャーの自殺率がすごくあがってるんでしょう。これには出産時の帝王切開とか,病院で生まれたかどうかとか,そういうことと関係があるんだということだけど。オランダでは低くて,ほかは大変なんだよね。オランダはなんでかっていうと,33パーセントは自分の家で生むわけ,産婆さんによってね。アメリカの場合,自殺した人の23パーセントは帝王切開なんだ。ブラジルだと自殺者の32パーセントが帝王切開。オランダの場合は,7パーセントが帝王切開。まあそういう統計をあげてましたね。必要性もないのに帝王切開をやるし,それから最近は会陰を切るのはあたりまえでしょう。だからやっぱりそれも,憂うべきものとつながるんじゃないですか。日本では,自閉症と出産時のドラッグ,麻酔薬との関係が報告されているそうですね。
- 中川
- ところで,今回の会の雰囲気はどうでしたか?
- 片桐
- 会の雰囲気はとってもよかった。とってもよかったというのは,やっぱり来てる人たちがいい雰囲気だからなのかな。あのね,とげとげしくないね。つまり,あんまり競争的じゃないわけね。あるいはアグレッシヴじゃないと言ったらいいかな。アメリカ人はなんか自己主張が強くて,人のことを聞かないという,そういう感じなんだけど,今度の会に来てる人はそうじゃなくて,やっぱり人のことを受けるというところもあって,アメリカ人にしては,リセプティヴと言ったらいいのかな。そういう態度があったし,それはやっぱりメディテーションとか,そういうことやってる人たちのカルチャーが育ってきていて,気もちのいい人たちの集まりだったと言えると思いますね。
- 中川
- ロスアンゼルスの雰囲気はどうでしょう?
- 片桐
- わからないけど,とげとげしくなくなったね。タクシーに乗っても,タクシーの運転手がリライアブルなわけ。前なんかね,こっちの言うことを受け取ったかどうかもわからず走りだしてしまうという感じがあったよね。どこへ連れていかれるのという不安があったね。だけど今度はタクシーの運転手の態度が非常に変わってるよね。それから街の雰囲気も,とげとげしいというか,殺気立ったというか,そういうところがなくなって,なにか穏やかになってきたようにおもう。
- 中川
- 精神面で豊かになったということがあるのでしょうか?
- 片桐
- そういう感じは出てきたんじゃない,たぶん。だから,ああいう人たちがふえれば,やっぱり百匹目のサルじゃないけど,だんだん変わってくるとおもうよ。
- 中川
- 今回,ぼくは「ボーディ・トゥリー」に初めて行けてうれしかったんですが,あそこもすごい繁盛ぶりでしたね(ボーディ・トゥリー書店は,その年の成功したビジネスとして,商工会議所から表彰されていた)
- 片桐
- いや「ボーディ・トゥリー」の雰囲気も変わった。それはね,どういうふうに変わったかというとね,そんなに特別の場所じゃないというふうになってきた。前はね,もうちょっとなにか特別な人たちがくるような場所だったような感じがある。それがそんな特別な場所じゃなくなったという感じがあるね。だから,やっぱりああいう意識がかなり広まってきた,ふつうの人たちのあいだにね。ぜんぜん今回の会議とかそういうこと関係のない人たちのあいだにもね。百匹目のサルという話はもっとみんなの常識になってもいいんじゃない。
- 中川
- 日本は百匹目までは,まだまだですか?
- 片桐
- いや,そりゃアメリカが変われば,日本だって変わるし,そういう意識はその国に限られたものじゃないからね。