習慣ではない言語習得

投稿日 2013年2月28日

Essentially, Basic English is an attempt to substitute insight for habit as a working principle in language.

–I.A. Richards

「本質的にベーシックが試みることは, 習慣のかわりに洞察でおきかえて, 言語をはたらかせる原理とすることだ。」 これはI.A.リチャーズがたぶんベーシックについて最初に書いた文章で, 発見者のケンブリッジ大学のジョン・カンスタブルによれば, 1931年に日本で発行されていた英字新聞 The Adverti-serへの投書のタイプ原稿であった(注1)。

普通に外国語学習について言われていることは, 外国語による発話が無意識的・自動的「習慣」になるまで練習しろということだ。リチャーズはここでそれと正反対のことを言っている。

刺激に対して言語を反射的に使うのではなくて,考えてから使うように,ベーシックではせざるをえない。

外国語という新しい道具を使うためには,母語という古い道具の使い方の習慣を一時的に止めなくてはならない。新しいことの学習が起こるためには, 古いやり方が起こってくるのを「抑制」しなくてはならない, ということをしつこく主張したひとりはF.M. Alexan-der(1869-1955)であった。

俳優であったアレクサンダーが舞台上で声が出なくなるという心身のトラブルを解決する過程で発見したことは, ひとつの刺激に対して複数の行動を同時に起こすことは不可能であるという, いわばあたりまえのことであった。GDMでは母語による反応をまず抑制する。するとどのように反応したらよいか迷う瞬間がある。それは同時にいろいろな選択肢が浮上する瞬間でもある。わたしはとてもおかしな経験をした。ウィーンでわたしは友人のアメリカ人,ビルさんとカフェでテーブルについた。ウェイターが来ると, わたしたちはほとんど同時に彼に話しかけた: ビルは日本語で,わたしはスペイン語で!(大笑い) ここは外国であるから母語で話す衝動はふたりとも抑制した。しかし次ぎの瞬間にあわてていたので, ビルにとっての第2外国語すなわち日本語,わたしにとっての第2外国語すなわちスペイン語にとびついてしまった。もうすこし落ち着いていたらば,ここはドイツ語圏だということを思い出しただろう。

EP2まですすんだわたしの小クラスにとてもやりにくひとがいる。わたしがいろいろ工夫をこらして”seem”をおしえていると, このYさんが”ああ錯視のことか”とさけんだ。わたしのやる気はがたがたと崩れおちた。また学期はじめのクラスでは休暇中はどうだったかの話が自然におこるが, それを助けようとして, わたしは図1を見せた。即座にYさんが “あっ,たてこもり!” といったので,わたしの計画は水の泡となった。外国語学習で抑制してほしいのは, このような衝動的発言である。わたしの計画では”This is a street.A building is on this street.This build-ing is a bank. A man came into this bank.He had a gun in his hand.” とかいって容疑者がピストルをもっている写真を見せ,”Hekept some persons in a room. Some times he came to the window and he let other persons see him.”とか窓から彼が見える写真の話に発展するはずであった。しかし地図は現地ではなかった。

ひとつには,この刺激はYさんにとっては強すぎた。彼女は事件のときに近くの事務所ではたらいていて, 実際に交通が遮断されて銀行へお金をおろしに行くことができなかった。刺激があまりにも強すぎるとエネルギーが学習の方へ流れない。クラスを面白くしようとしてゲームをつかうと, 興味は競争のほうへ行ってしまい, 言語のことを忘れてしまう。母語での衝動を抑制できる程度のほどほどの刺激, 習いたての外国語と見合う程度のほどほどの刺激について, わたしはBulletin,No.46(1994)の「言語と認知の共育」で触れたことがある(注2)。

F.M.アレクサンダーが自分の心身をつかって体験的に発見したことは, C.S.シェリントン(1857-1952, 1932年ノーベル賞)の神経生理学とも一致した。一方で,リチャーズの『文芸批評の原理』(1924年)はシェリントンなしでは書かれることがなかったであろう(注3)。

たしかにわたしたちの言語行為は多くの習慣的行動によって成り立つところがあり, 無意識的, 自動的, 条件反射的におこなわれる部分が多い。しかしそれは「結果」としてそうなったのであって, そこにいたるまでには「プロセス」として, 乳幼児時代からの多くの意識的な実験と経験の積み重ねがあった。

プロセスすなわち, そこにいたる手段を忘れて, 結果だけを手に入れようとする態度を「目的に走る」といってアレクサンダーは強くいましめていた。アレクサンダーからレッスンをうけて, 心身の危機から立ちなおったオルダス・ハクスリーは『目的と手段』 Ends and Means (1937)を書いて, 目的に走らない態度の社会的効用をしめした。

アレクサンダーの発見は「やるぞー」と意気込んだとたんに首のうしろを緊張させアゴが出てノドのとおりが悪くなってセリフが言いにくくなるということだった。へたな意気込みのためにわたしたちは startle reflex(びっくり反射)に落ちいり, かえって心身の自由な動きを失うことが多い。「日本の英会話の主流」になったと自称する『スピードラーニング』の新聞広告の見出しは:

英語の勉強は死ぬほどイヤだった
だから英語が話せるようになった

私は, 今までのコツコツと積み上げる
勉強法をやめたから英語が話せました

一切勉強のための時間は作らず, 続けることと, 覚えようとしないことを心掛けました

いわゆる「勉強」とか「学習」の盲点すなわち緊張との癒着を断ち切ることを宣言している(注4)。そして

まずは一日5分から
聞き流すだけでいい

意味をわかろうというような言語刺激に普通ともなう衝動をまず抑え, 言い方を覚えようとかいうような学習に普通ともなう衝動を抑えて, つまり「目的に走る」ことを「抑制」して,『聞くだけに徹底する』のだという。意味がわからないために不安におちいらないように, 4秒以内の英語の後に日本語訳が録音されていたり, リラックスして聞けるためにBGMにバロック音楽を流すなどしているという(注5)。

昔風のdirect method では入門期のかなり長期間を発音の練習だけですごすとか, Si-lent Wayで使う色つきの棒とかは, 刺激とそれに対する母語的反応を, 切り離す効果があるにちがいない。ところが教室での評価という目的に走ると, 意味と切り離された発音とか, 棒に対する反応のみを洗練してしまうことも起こりえる。言語の「目的」はコミュニケーションだということに反論はしにくいが, それが起こるための「手段」としては, 言語のレールのうえに考えを順番に並べなくてはならない。その手段に目を向けると, 認知と筋肉の関係が浮上してくる。

舞台上で声が出なくなったアレクサンダーの発見は, セリフをしゃべるという刺激に対して条件反射的にのってしまうと首を緊張させている。そうならないためにアレクサンダーがしたことは, 一瞬,「いや, わたしはしゃべらない」とおもって体勢をたてなおす。そして「しゃべる」という考えと緊張との癒着を断つためには, 考えを小さな行動の単位に分割する: 「しゃべる」のかわりに, 口をあける,いきをする, 音をだす, ことばにする, というプロセスに注意をむけることにした(注6, 7)。これはまるで, かたまりとしての動詞を基本的動作に分解したベーシックと同じ発想ではないか!

GDMの現場にもどると,動作語の導入においては, 未来|進行中|過去 をはっきりと分けて提示することになっている。ところがしばしばいおちいりがちな動きとして, “I will take my hat off the table,”といいながらボウシに手をのばして, 取り上げる動作に入ってしまうことがある。特に生徒が自分でしゃべりながら動作するときに起こることが多い。すると”I will taking…”というようなまちがいの原因となる。図2の生徒さんはとかく先走りやすいひとなので, わたしは彼女の腕をおさえて抑制している。

先生自身がやって見せる場合でも,最終的にはtakeすることになるとしても, いや, わたしはtakeしない, とおもって, my hat からはいくらかの距離をおき, 自分を指して, “I”といい,”will take”で取る身振りをして “my hat”を指さし, “off the table”でテーブルを指し, 手のひらを上向けにして離れることを示す。

“I will give…,” “I will go…,”のときも進行形にずれこむ危険が多い。これを抑制することは, センテンスを正しくするだけではなくて, その動作をする意志の確認という意味がある。というわけで先生が気軽に命令的に”You will…,”といって何かをさせることは避けたい。やりたいひとが, やりたいことをするときに, “I will…,”という意思表示をしてから, 何かをできるように状況を用意したい。そのためには動作の目的物とか,行く場所などについて, いくつかの選択肢をつくっておくと, やりやすい。ベーシックには”want”という語がないことに不便を感じるひとが多いかもしれないが, “want”をいいたい場合のかなり多くは”will”でいったほうがよいのだ。

いままでわたしたちはsituationをあらわすsentenceをつくりだすことにはかなりの成果をあげてきたが, これはリチャーズによれば”passive use”なのだ。それにつづくべき”active use”では生徒が自分でsentenceをいうことによって, こんどはsituationが変わってくる。これらふたつの使い方が交互に起こりつづけることで言語が育っていく(注8, 9)。

NOTES

  1. I.A. Richards, “The New World Lan-guage,” 日本ベーシック・イングリッシュ協会『研究紀要』No. 9 (2000年).
  2. 片桐ユズル『メディアとしてのベーシック・イングリッシュ』(京都修学社, 1996), pp.128-142.
  3. John Paul Russo, I.A. Richards: His Life and Work (Routledge, 1989), pp.177-79.
  4. 朝日新聞, 2001年1月4日.
  5. 朝日新聞, 2004年1月6日.
  6. 片桐ユズル「超人への道? 一般意味論とアレクサンダー・テクニークの接点」 木野評論, No. 21(1990年)。 再録『ふたつの世界に生きる一般意味論』(京都修学社, 2004年).
  7. 片桐ユズル『メディアとしてのベーシック・イングリッシュ』(京都修学社, 1996年), 第9章.
  8. 片桐ユズル「場面をあらわすセンテンスと場面をひらくセンテンス」 GDM Bulletin, No. 51 (1999).
  9. I.A. Richards, A Semantically Se- quenced Way of Teaching English (山口書店, 1993), p. 269.

GDM News Bulletin, No.56 (June 2004)