風景について

投稿日 2013年2月28日

 クジラの背中みたいな山が,霧だか,もやのなかから,重なりあってうかんでいる,大和絵というのか,そういう日本画の世界は,じつは,空想の産物ではなくて,ほんとうにそうなのだ,ということが京都に住んで,発見した。そして比叡の峯に雪は降りつつとか,大原の里に雪は降りつつとか,それはたんに和歌のきまり文句にすぎないとおもっていた。しかし京都に住むと,ここは天気の変化がはげしいところで,じっさいに,いま,どこそこのあたりに雪が降っているとか,雨がふっている,ということがわかるのだ。それから太陽がしずむときのことを「燃える日輪が」というようにあらわすのもレトリックにすぎないとおもっていたが,京都盆地の西の山にしずむとき,ほんとうにまっかな火の円盤がぐるぐるまわりながら落ちて行く。ニホンでは太陽の色は赤ということになっているが,英語国民は The sun is yellow なのだ,ということも,日本の空気とか湿度とか,そういうことで,そう見えることが多いのかもしれない。そういうわけで,スタイルとか,レトリックにすぎないとおもっていたことが,さいしょは,じつは,リアリスティックな表現だったのだ──ということが現地へ行ってみるとわかるのだろう。たとえば中国の山水画,奇巌絶壁,妙義山みたいな山ばかりが,ほんとうに中国のけしきなのだ,と聞いた。

ニューヨークへ行ったとき,あまりにも写真で見ていたとおりなので,がっかりした。それから摩天楼というものはモダンなもので,すなわち新しくて,すなわち,できたてでピカピカなものかと思っていたら,古くて,すすけていたので,がっかりした。日本のビルのほうが新しいじゃないか。1966年にはじめて広島へ行ったとき,なんともいえず,へんな気もちがした。しばらくたってから,そのへんな気もちは,広島の街のビルが,どれもだいたい同じ新しさにそろっているところから来た,ということに気がついた。つまり,町並みとして自然なのは,いろいろな古さ新しさの建物がまざりあって立っていることなのだ。

神戸の垂水の松蔭女子学院大学から,京都の岩倉木野の京都精華短大へかわったことのひとつの理由は,精華へ非常勤で来ていたとき,1972年秋にアカトンボがすごくたくさんいたからだ。こういういなかに住んだら子どものためにもいいだろう──ところが,その子どもは団地のコンクリートの歩道にそだったため,土の道を歩くのは気味がわるいことだった。おまけに草むらからヘビが出てきたりして。そのためにかえって外に出なくなってしまったりしたことは予想外のことだった。

 現地へ行ってみないとわからないことのひとつは大きさだろう。北米の大平原がどんなにひろいか写真ではあらわせない。ようやく地平線に汽車をはしらせるとか,なにか比較するものをもってきて,まあなんとかなることも,たまにはある。グランド・キャニオンは,肉眼でも,じつは,なんだ,たいしたことないじゃないか,はじめそうおもった。ところが望遠鏡で谷底をのぞいてみたら,肉眼では草が点々と生えてるとおもったものが,じつは松の木だったことがわかって,ぶったまげた。構造だけではなくて,大きさも美の要素だということが,シカゴ美術館で,スーラのグランジャットの日曜日をみたときに,びっくりした。有名な絵だけど,高さはひとの背より高かったように思う。幅は4〜5メートルあっただろうか? それが,あの点描の点々で埋めつくされているので感激した。それから美術館で,ある傾向の作品が量的に多いということで,その流派の重みというか,そういう趣味の根づよさを感じることがわかった──例えば,中世の宗教画みたいなもののウェイトは,日本で西洋美術を見るときには,つまらないとおもって,すどおりしてしまうから,美術全集などでもたいしてページをつかわないかもしれないが,西洋の文化のなかでは,じつにたいしたものらしい,とか。そういう意味では,さいきん京都に来た韓国美術五千年展は,かならずしも量的に,韓国の趣味を忠実に反映したものというよりは,日本人の趣味にあわせているところがありはしなかっただろうか? ソウルの博物館の印象とは,かなり,ちがって感じた。

ぼくのように関東平野でそだった人間にとっては神戸のように,どこも坂の途中みたいなところは,安定感がなくて,いつも木の枝にとまっているみたいだった。ひろくて平らなところに来るとヤレヤレと安心した。京都もいいところだけど,まわりが山でかこまれているので,たとえば堺みたいに,山がなくて,空がひらけたところへ行くと,ほっとする。関東平野の土は黒いので,土はどこでも黒いものだと思っていたら,関西へきたら,土が白くて,まぶしい。関東で白い土のところは海岸のそばなのに,ここでは山の中へいっても海へあそびにきたような錯覚がある。それから,ぼくのように太平洋側の日本でそだった人間にとっては,川は北から南へながれるものだった。だから,日本海側へ行くと,川がながれないべき方へ流れている,太陽の反対方向へ流れている,というのは,一瞬,ヘンな気もちになる。それから国語の教科書の季節感が,あまりにも,東京中心のものを,全国におしつけていた,ということもわかった。しかし土地は黒くて平らなものだとか,川は太陽の方へ流れるものだ,というような条件づけは,神戸とか,日本海側に生まれて育ったひとは,反対の条件づけをされるわけだ。

小学校のとき遠足で一休みした場所で,すごくすてきな別天地のようなところがあって,ながいことまたそこへ行きたいと思いつづけていた。たぶん16〜7才ぐらいになってから,あるいたり,自転車で,さがして,みつけた。それは深大寺のすぐ北のあたりで,武蔵野台地がおわるあたりの崖が,そこらあたりは,なだらかに崩れて,雑木林をぬけると,日あたりのよい窪地がひらけ,タンボのまんなかを小川が流れ,とおくに神社の森がある,というようなところで,ほかの世界からポコっと,そこだけ別になっていた。桃源郷とか,壷の中の世界,ということも中学生になってから,なんとなくあこがれた。もうひとつ似たような場所をおもいだすのは,いまのキリスト教大学とか富士重工の敷地が野川へむかって傾斜するところにも,そうい日あたりのよい芝生の窪地がひそかにあった。

ついでにいえば,この野川の谷は,そのころは西武線是政線の鉄橋の下から,ずーっとレンゲのさくタンボのなかをながれて,両わきには雑木林のなだらかな丘があった。その川はヒザまでぐらいの川だったけど,ぼくの夢のなかでは,すみきった気もちのよい水で,大好きな仲間たちとはしゃぎながら泳いだ天国なのだ。国分寺の恋ヶ窪も似た地形だが,野川の流域よりも,もっと規模が小さく,ぼくの記憶では,よどんでいた。

梅の香りというものは,ふわっと,ほのかなものだが,京都は空気がしめっているせいかあ,花にはなをつけてかぐことができる。神戸ではチンチョウゲが貧弱でにおわなかったが,京都では東京よりもにおうかもしれない。このあいだ南国のにおいがするとおもったら水仙だった。ロサンゼルスで,スモッグの下で,感激したにおいをおもいだした。なんともいえない,あまく,はなやかで,さわやかなにおいは,サンディエゴの自然動物園の入口で,アフリカから移植した花々のにおいだった。東京駅の空気が,京都岩倉の空気より良いはずはないとおもうのだが,新幹線からホームに出ると,やっぱり,しっとりと,なつかしい,いいにおいだ。

(思想の科学研究会会報,No.80 (1976年4月)

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