English Through Picturesのメタ言語──または語彙力の強め方

投稿日 2013年2月28日

新しいことばを知るには,普通はそのことばについての説明を聞いたりする。この説明はことばについて語っているから,じつはメタ言語を使っているのだが,このことはほとんど意識されていない。“This is a hat.”というのを 「対象言語」 とすれば,“This is a hat,”is a statement. といえば「メタ言語」である。English Through Pictures, Book 1(EP1),p.30で“What is this?”is a question. “It is a hat,”is an answer. というのはメタ言語への最初の導入である。それにつづいて “These are the numbers from one to twelve. One, two,…twelve.”

例によってEPでの導入はごく自然におこなわれ,生徒は気づかなくてもいいが,先生は意識していたほうがよい。じつはメタ言語は,対象言語を一段高いところから話題にとりあげるから,ほんとうは難しいことなのだ。しかし大多数のひとは,この困難を意識しないままに話をすすめているので,混乱におちいりやすい。しかし「文法」とか「論理」とかに対してしろうとがどれほど拒否反応をおこすか見れば,それらがもろにメタ言語であるためだ。英語の意味を日本語で説明すれば,それはメタ言語になってしまう。訳読法は母語を使うから一見しんせつみたいだが,説明すればするほど,わかりにくくなることを思い出してほしい。語学の専門家はつねに言語について論じているから,メタ言語には慣れているが,それ以外のひとにとってメタ言語はそれほどやさしくはない。(一方で言語について論じると,自分がひとより一段えらくなったような錯覚をもちやすい。)

BASIC English をいままでわたしたちはどちらかというと,自己発信用の制限単語リストとしての側面を強調してきた。しかし1930年ごろBASICの発表当時は英語教育において今ほど受信/発信という区別をかんがえなかった。BASICはそれを使って,より広い世界に入っていくための道具であった。世界について説明し,ことばについて説明するための手立てであった。というわけで The General Basic English Dictionary (以後 GBED と略す) の制作には大変なエネルギーと期待がかけられた。現在わたしたちがやっているほどSEN-SITによる直接的な教え方が開発されていなかったから,Direct Methodといっても,英語で英語を説明することが大きな部分を占めていた。かならずしもBASICでなくても英英辞典を使うことがもっとも正統派的な英語上達の方法といわれていた。既知のことばを道具に使うから,復習をしながら先へすすむので,二重に勉強になるといわれていた。“Be able to”は“can”だというふうにしてわたしは学習した。

GDMについてしばしばたずねられる質問に,抽象的なことばをどう教えますかとか,受信用語彙をどう増やしますか,というのがある。English Through Pictures(以後EPと略す)をていねいにしらべることにより,わたしのやりかたで,これらの質問にこたえてみたい。

BASICはその発生からして,オグデンとリチャーズが『意味の意味』を書く必要から,いろいろな語を定義しているうちに,ある少数の語がくりかえし現れることに気づき,これらの定義用語だけで,すべてのことをいいあらわすことが可能だとおもった。たとえばものそれ自体の名前を知らなくても定義用語だけで,「なにか書くものない?」とか「お飲み物は?」とかで用がたりている。

ことばについての説明すなわち「定義」こそBASICが得意とするはずである。しかし「定義」というと,なにかおそろしげだ。「定義」をするには,何か唯一で普遍的な正しい方法にしたがわなくてはならないような錯覚がある。しかし『意味の意味』でいわれていることは,要するに話相手にわかってもらえばいいのだ。道をおしえることにたとえれば,最低必要なことは出発点を共有すること,目的地をわかっていること,そうすれば状況に応じていかなるルートをえらんでもよい。状況の数だけアプローチの仕方があるといえるが,その代表的なものを『意味の意味』では10にしぼり,Hugh Walpole, Semantics (1942) では25を列挙している(注1)。“What is an apple?”とたずねられて “An apple is a round fruit which grows on a tree and which has a smooth red, yellow, or green skin and firm white flesh inside it.”と百科事典にあるようなことをいわなくても,“This is an apple,”といって手にとってみせればいいのだ。これが第1番目の定義の仕方だと『意味の意味』に書いてある。この場合に話し手と聞き手は共通経験をもっている。English Through Pictures はここからはじまる。

EPは最初の29ページをほとんど“This is a table.”“This is a hat.”のように直接的に指示物をあらわすことですごしたあとで,question, answer, numberがあらわれ,さらにp.37で,things, personsがあらわれる(注2)。“Things”は実演では,いろいろなものを同時に見せて,“These are things,”といっぺんに提示することができる。しかし紙のうえでは,“What are things?”“A house is a thing. Houses are things. A hat is a thing. Hats are things. Doors and windows are things. Tables and seats are things,”というように,“モノとは…?”といって考えこむのではなくて,すでに知っているものの例をあげることでわからせる。これも定義である。“Dresses and stockings and shoes and gloves are clothing (EP1, 81).”“Cows are animals. These are some other animals: a pig, a sheep, a horse (EP1, 91).”“Apples and oranges are fruit (EP1, 100).”“Soup, milk, potatoes, meat, bread, butter, cheese, apples, oranges are food. They are different sorts of food. Glasses and boxes and fingers and dresses and flames are things. They are different sorts of things (EP1, 106).”“Cows and sheep and pigs and horses and goats are animals. They are different sorts of animals (EP1, 107).”

Persons の導入は things との対比ですることができるが,すぐに実例で補強される: Men and women and boys and girls are persons. They are not things. You are not a thing. 対比によって新しい語を導入することは定義の有力な方法のひとつだが,GDMでは structure を教えるのに最初からごくあたりまえに行われている。Content wordsにおいては特に qualities はほとんど対比で成り立っている(以後カッコ中のページ数はすべてEP1): right/left (13); open/shut (26); long/short (45); new/old (80); warm/cold (96); thick/thin; good/bad (98); hard/soft (102); high/low (104); same/different (106−7). Qualities のみならず,thingsにおいても対比はman/woman (8); boy/girl (37), back/front (84)などにあらわれる。すこし例外的なのはqualityの“solid”に対して“liquid”はthingである: “Ice is solid. Water is a liquid (94).”“Opposite”という語の導入は EP2, 31,“This is one side of the box. This is the opposite side of the box.”すこしがまんして EP2, 80まで進んだら,むかしの大判のA Second Workbook of English,いわゆる“Blue Workbook”の“Night School,”Part I (pp.16−17)を見てごらん。またEP2, 184でも,練習問題は反対語についての復習になっている。さらにEP2, 139−141でくりかえされる。とにかく“opposition”の考えがなかったらBASICは成立しなかったし,オグデンの著書Opposition (1932)は主流派の言語学でも必読書である。

“Together”の導入は特にメタ言語での説明によらずに,同じ指示物に対していろいろな言い方ができることで示している: They are at the window together. She is with him at the window. He is with her at the window.(EP1, 38) 同じ状況に対してしつこいとおもうほど異なった言い方をかさねるのはEPの特長といえる: This is a table. This table is here. It is here (10). My hat is in my hand. It is in my hand (11). ひとつの言い方でわかったからいいわ,といわずに音の記憶として頭にいれておくと良い肥料になる。かつて吉沢美穂さんはいわゆる暗唱を非難したが,意味もわからずやみくもに暗唱させる当時の風潮に反対したのだった。EPの音をくりかえし聞いたり,口に出したりしていれば,自然にテキストが暗記されてしまうことは,たいへんにおすすめなことだ。

EP1, 40−41で導入される see, have, say は,それまでの take, put, give, go とはいささか異なる。“That is a man”というよりは,“I see a man”といえば,認知についての反省がある。メタ認知である。“He said ‘hello’”といえば音を口に出すという動作だけかもしれないが,同じ人を見て“He said,’I see a man.’ But she said,’I see a woman.’”というようなことになれば認知についての議論になる。くわしくはわたしの「言語と認知の共育: GDMの認知的段階づけ」をごらんください(片桐ユズル『メディアとしてのベーシック・イングリッシュ』(京都修学社,1996)。

“Have”は“part”と関連していて,“part and whole relation”は定義で重要な方法であるのみならず,意味のおきかえにおいてもリチャーズは大変に重要視している (たとえば How to Read a Page, 1942)。“Parts”の導入は実演ではいきなりバラバラにした部品をみせて,“These are parts of a seat,”ということもできるが,テキストとして EP1, 45では“This is a face. His eyes, his nose, and his mouth are parts of his face.”すぐにつづいて同じページで,“parts”という語こそ出ないが,時計の例でhaveを使いながら部分/全体の考えをつよめる: “This is a clock. It has a face….The clock has two hands, a long hand and a short hand.”部分/全体はすでに“of”(EP1, 26)で種がまかれていたし,“These are the pages of the book. These are the covers of the book. The pages are between the covers of the book (43).”というような定義もあった。“Do you see two seats and the bookshelves between them?… Yes, I see them. These things are in the room. The room is in a house (47).”ここでも部分/全体のかんがえが確認されている。

定義用語としての“part”はEP1, 49−51で大活躍する: The part which is between his head and his body is his neck. The part which is under his mouth is his chin. EP1, 49のイヌのところでは多少の注意がいる: This dog has a body….He has four legs and a head and a tail. He has no arms or hands, but he has feet. His head, his body, his legs, and his tail are parts of a dog. イヌの場合は言語習慣としてarmsとかhandsとはいわずに,feetになるということだ。

“Chest”が胸のことから大きな箱状のものに変わることは,生徒さんたちがついていきにくいようだ(EP1, 51)。このようにナニナニみたいなものというのは類似による定義といわれる。たとえはEP1ではすでにやってあった: “This is a seat. These are its arms. These are its legs (25).”“A clock has a face….and two hands, the long hand and the short hand (46).”

“Name”はじつはメタ言語なのだ。EP1, 58,“Who is this? He is John Smith.”指示物そのものについてしゃべっている。つづいて“His name is John Smith”は単なるリピートではない。それの重要性は English Through Television を補助にすることによって,よくわかる: Who is this man? His name is Edward Smith. He is Captain Ed Smith.”このひとはむしろ“Captain Ed Smith”として指されることが多いのだが,名前をいえば“Edward Smith”なのだ。EP1, 61でも,“She is Mrs.Smith. Her name is Mary Smith.”生徒にこのことを講義する必要のないことはもちろんだが,つぎのように“name”を自由に使えると先にいって便利である。ETVのLesson 13では上記のセンテンスにつづいて,“On the wall is a picture of his ship. The ship is on the water. Its name is The Anabel. The ship in the bottle is The Anabel.”

ETV,Lesson 16: “Where are those boys, Tom?”Mr.Wilson says,“I saw them take the Mermaid out at two.”The boat’s name is the Mermaid. The man’s name is John Wilson. 一見なんの変哲もないが,突然出て来た“the Mermaid”はボートの名前だということが説明されてあり,“The boat’s name”なんて言い方していいのかしら,と問われるまえに,“The man’s name is …”と並列して,こんなふうに言ってもいいのだとわからせる。BASICにえらばれた語は広い意味領域をカバーするから,当然のことながら抽象的傾向がつよく,特定の文化に密着しない。ところが多くのひとは現場に密着した呼び名をうれしがる。“This is an instrument for measuring heat. Its name is the thermometer,”のようにして彼らの欲求を満足させることもできる。ほんとうは生徒が自分で “What is the name of that thing?”のような質問をして,道を切り開いて行けるようにしたいものである。ここでいささかの自己批判を含めていえば,What?を導入するときに,何だかわからないものを見せて,それに対して“What is that?”というような練習は印象深くやってきたが,それだけでなく物の名前を知りたいときにも“What is this?”を使えるようにしたいものである。

EP1, 79: Nobody=no man or woman or boy or girl or baby. EPでもたまには,このような説明がある。GBEDでは“No persons”。

EP1, 91: Cows are animals…. We get milk from cows. このへんから話は目の前で起こっていることから離れて,単純現在形の導入とともに,一般論へはいっていく。Animalsのみならず,実例を列挙する“sorting statements”はすでに,things, persons, clothingなどでやったが,ここではさらに出所をあきらかにすることも定義になりえる: We get milk from cows. 似たようなことが,EP1, 99でくりかえされる: We make cheese from milk. We make butter from milk.

EP1, 92: We get potatoes from the roots of a plant.“Plant”の導入はanimalとならべると,分類上の2大対立概念をつくる。EPではしかし,a pig, a sheep, a horseのように名前を列挙した動物の場合とは異なり,植物の名前を列挙することをさけて,“This is a plant. This is its flower. These are its leaves. These are its fruit. This is a branch. This is its stem. These are its roots,”のように部分の名前をおしえる。これはかしこいやり方だ。ともすれば生徒がおぼえたがる語は,抽象度が低く,その物ベッタリの,1レベルだけでしか使えないのものにおちいりやすい。そういった誘惑に抵抗してわたしは“These are roots of some other plants.”といって,ダイコン,ニンジン,カブ,ゴボウ,サツマイモなどの実物を見せながら,名前はいわないでおく。Fruitにしても,ここでは“Apples and oranges are fruit”という分類をするのではなくて,名前などに興味をしめしそうもない植物のfruitを具体的に見せたり,さわらせる。ETV, Lesson 20で見るように,室内用の水栽培やら植木鉢の植物が役に立つ。

そのあとで“Apples and oranges are different sorts of fruit (EP1, 106)”へ行けば,fruitという語を2つの異なったレベルで使うことになる。同様にETV, Lesson 15で “A dog is going after another animal,”でanimalは分類ではなくて,目の前のイヌが追いかけている具体的な1匹の動物だ。分類用語としてだけではなくて,“Are these your things?”とか “Put your clothing in this basket,”とか目の前のモノに対して使えることが実力になる。EP1の同ページ(91)で,“We get potatoes from the roots of a plant….We get them up with a fork.”“Fork”は小さいのだけでなくて,大きいのもあるという,意味のひろがりについていってほしい。ひとつの意味にしか使えない単語を数多くおぼえるよりは,ひとつの単語のいろいろな使い方についていけるようにしたい。

さてテキストではメアリーがジャガイモの皮をとって,お湯をわかすとか,料理ではいろいろな化学変化がおこる。変化が起こらないように“keep”するのが“icebox”のはたらきだ。というわけで,はたらきによる定義が出てくる。もうひとつ,“A clock is an instrument for measuring time.”そして寒暖計の絵があり,“This is an instrument for measuring heat (EP1, 97).”ナニナニ for ナニナニing という,道具などのはたらきを説明するのに便利な言い方を学習できる。GBEDでclockを見ると“Time-measuring instrument for room, etc.”

つづいて EP の同ページにもどると“This is a measure. It is a yard measure. There are three feet in a yard. There are twelve inches in a foot (97).”これはあとになって,“There are twenty-four hours in one day. Twenty-four hours make one day (EP2, 24).”さらに“Seventeen hundred and sixty yards make a mile….Miles, yards, feet and inches are measures of distance (EP2, 59.”という”単位”の説明にいたる。

BASIC の quality words の半数には反対語があるが,“clear”にはない。どのように説明するか? EP1,110: “Potato soup is a thick soup. Thick soup and clear soup are two different sorts of soup. This water is clear. When a liquid is clear we see through it. Milk is not a clear liquid. We do not see through it. The air is clear. I see the mountains. When the air is not clear I do not see them.”GBED: Able to be seen through; unclouded; sharply outlined; (of road, etc.)open, with nothing in the way; readily taken in by the mind; without doubt;… 透きとおっているから,明快である。物質的意味から精神的意味にいたるのが重要だ。

EP1の最後は家族の話になる。家族関係用語でBASICにないものは,home, children, husband, wife, grand-father,-motherなどで,厳密BASICでは,John is married to Mary. They are Mr. and Mrs.Smith. They have two sons and two daughters. They send their boys and girls to to good schools. The family is living in New York City, but John’s father and mother are living in the mountains,のようなことになる。しかしETV, Lesson 23 では,non-BASIC の家族関係語をストーリーのなかで,ごく自然に言いかえたり,説明したり,くりかえして,いつのまにかわからせてしまう。Wider English については,どこまでを使えることばにもっていくか,どこまでを理解だけにとどめておくかについて,それぞれの現場での判断が必要である。

いよいよ Book 2 に入る。まず物としての It is a comb. It is a brush がある。それはすぐにShe is combing her hair. Now she is brushing her hair という状態をあらわす(EP2, 9)。P.16では,The man is writing a letter から,It is in Mr.Roe’s writing になる。P.18では,Now she is reading:“I had a good journey….”からReading and writing are parts of our education という使い方になる。これらの場合に具体的な物とか,見えやすい状態から入り,抽象的な使い方になる。EP2, 19では Mrs.Smith is taking a look at Tom’s work. It is good work. ここでもworkは,物として触ることができる。はたらきとしてのworkが出てくるのは,EP2, 108〜である。メタ言語をあたかも物であるかのように扱うことを,わたしたちはquestion/answerの導入でおこなってきた。それは ETV が“name”を導入する場合にも見られる: The house is in a street. The name of the street is Short Street. There is a name on the door of number ten. The name is Jones (Lesson 14).

あるいはmeasureについては,This is a yard measure (EP1, 97). I am measuring the wood (EP2, 36). Inches, feet, yards, metres, and miles are measures of distance (EP2, 81). There is no measure of the beautiful (EP2, 143). 物からはじまり,その物を使う動作から,計量の「単位」へ,そこから「基準」へと意味が移っていく。じつは単語の力というものは,このような意味の移り変わりについていくことの方が,多数の語を知っていることより重要であると,この文を書きながらますます思うようになった。その力をのばす方法として,指示物を共有するところから出発するのがEnglish Through Picturesであった。それとは別に普通に思いつくことは,こういうときには,どう言ったらいいでしょう,というふうにことばについて,ことばで議論することで,このやりかたで有名なのは E.E.Eckersley (1893−1967)の Essential English for Foreign Students, Books 1−4(1938−1942)であったといわれている。

それに対してBASICは,そのことばは何をあらわすか? を明らかしようとする。Change? What is that? (EP2, 69)のあたりから先は,いくつかのkey wordsを明らかにすることで話しがすすんでいく。たとえばEP2, 139: “Pleasure”? What is that? “Pain”? What is that? Put your finger in the flame. No, I will not. Why not? Because of the pain. I see what the sense of the word “pain” is now. This is another use of the word sense. Pleasure is the opposite of pain. “Opposite”? Good is the opposite of bad.

このへんにいたって,BASICの役目が指示物をはっきりと示すことだけでなくて,ことばについて論じるための明快な道具であるということだ。つまりメタ言語を明快にしてくれる。ことばを道具とすれば,BASICには道具をつくるための道具としてのはたらきがある。BASICの発生がそもそも『意味の意味』を書くときの定義をする過程から出てきたことを思えば,これは当然のことといえる。わたしの最近の経験からいえば,学生たちの困難は,単語の数がすくないことよりも,語の意味の変化についていけないことから来る。しかし彼らは自分の単語の数がすくないせいだと思いこんでいる。それは今までの教育イコール知識の暗記みたいに思いこんでいることから来るのだろう。ほんとうは知識をいかに使うかがたいせつなのに──すなわち,ことばの数量ではなくて,「使い方」がたいせつなのだ。

GDM News Bulletin, No.55 (June 2003)

NOTES

  1. 注1:室勝『意味の定義』(1972)p.9では,ウォルポールをさらに整理して21の経路をかんがえた。:本文注1の箇所に戻る
  2. 注2:じつはすでにEP1, 27であらわれる“picture”はモノそれ自体ではない,ともいえる。これまではイスの絵を見せれば生徒は“That is a seat”といっていたが,現物と絵を区別する必要から“of”を使う必然性がでてくる。片桐ユズル『メディアとしてのベーシック・イングリッシュ』(京都修学社,1996),p.129.:本文注2の箇所に戻る