世の中にはことばについてのテストがみちあふれているから,ひとびとは正しいことばの使い方というものがあるように錯覚している。しかし,正しいことばなんてない,というのが一般意味論の教えだ。ある言い方について,それが統計的に多くのひとが使っている用法だということはいえる。しかし正しいとか間違っているとかはいえない。親や教師や上司や友人や編集者やテスト屋をよろこばせたり嫌がらせる使い方はあるが,正しいとか間違っているということはできない。「出れる」とか「食べれる」という言い方は昔は「誤り」とされたが,最近は市民権を得たようである。ブッシュ大統領のおろかさは困ったものだが,正誤の2分法にもとづいている。
もうひとつ困ったことは,ブンガクのひとたちのこだわりかたを,場違いなところで普通のひとがまねすることだ。ぴったりな語はひとつしかない,le seul mot just,正確にある事象を表現する語は1語しかない,とフランスの大文豪フロベールは教えた。しかし,それを信奉することが害毒を流したと,わたしは思う。ブンガクを論じるひとたちは,ぬきさしならない1語について論じてきた。それは普通のひとの言語表現を縮こまらせてきた。普通のひとも書くときにはブンガクのように,ブンガクをまねして,書かなくてはならないような錯覚にとらわれてきた。ある事象を正確に表現する語は1語しかないとしたら,この世界の事象は無数にあるのだから,語の数は無限大に必要となる。こんなばかなことはない。
もちろん,ある一瞬間に,これだ! とおもう言い方にでくわすことはあるだろう。しかし,その瞬間が去れば,その同じ表現は,もはやピッタリではなくなる。普通のひとは,ぬきさしならぬ1語をもとめるよりは,こんな言い方をして他のひとに分かってもらえるだろうか,ということを気にすることが必要だ。ところが新しいテクノロジーの発達とともに,テクノロジーの狭い分野でしか通用しないことばで,無分別に他人に話しかけている。
わたしは英語と日本語のあいだを行ったり来りするのが商売だから,もうひとつの文化のなかでどのように伝わるだろうか絶えず気にしている。わたしが教えているアレクサンダー・テクニークの世界でも,このことは問題になっている。2001年の国際会議で出た話だが,「わたしは[アレクサンダー・テクニークについての]このセンテンスをフランス語に翻訳することはできない,なぜならこれはわたしたちの考え方ではないからだ。これが理由となってアレクサンダー・テクニークはフランスではさかんでないのだろう。」
この話をもうひとりのフランス人のアレクサンダーの先生,マリフランソワズに伝えた。すると彼女いわく「それをいったひとは保守的なんだわ。」そしてマリフランソワズは日本では,いくらかのフランスなまりの英語で教えているが,実際に通訳がわからなくて立ち往生したときに,ぜんぜん別の言い方で,まったく同じ事象をいいあらわしたのであった。ことばにとらわれずに,ことがらだけを明快にわからせた。
アレクサンダーの教えは,あるがままの自分でいることだと思うが,英語でのキイワードは”let”で,これはとても日本語に訳しにくい。Let your neck be free は相手と場合によって,首はらくなままで,首はらくにしてもいいんですよ,首をらくにすることを許して,…とわたしは変えている。わかってもらうためには,いつも同じではないのです。
E.S.国語塾だより,No.119 (6/20/2003)