替歌こそ本質なのだ

投稿日 2013年2月28日

こんどURCレコードから『関西フォークの歴史』ということで,その第一集(URL1039-40,2枚組)は去年の暮れに出て,京都のほんやら洞などではあっという間に売りきれてしまって,この第二集は,この『現代詩手帖』1974年3月号が出るころには出ているはずだけど,これは去年いっぱい,いや,それ以上かかって,秦政明と中山容とぼくが,むかしのテープを発掘したり,まぼろしのテープをさがしてあるいたり,さげつけない頭をさげたりして編集できたもので,このなかには名前だけは音にきこえていたが,演奏は音できくことができなかった阪大ニグロとか西尾志真子,東野人志とか日立ブルースがはいっているのだ。それから今は有名になってすましているけれど,そういうシンガーたちの旧悪をばらすようなものとか,とにかくこのレコードをきかずして七〇年安保前後の歴史はかたらないべきなのだ。

それで,これを機会にひとつの総括をしようとシンガーたち,小林隆二郎,西岡たかし,東野人志,古川豪などにあつまってもらったんだが,フォークとはふつうのひと,つまり非専門家で歌では食わないべきだ。とくに今みたいに悪い世の中では,歌で食おうとしたら,レコード協会のレコード制作基準とか,民放連の要注意指定歌謡曲とかいろいろあるので,とにかく自分のうたいたいことをうたっていたら食えるはずがないだろう,と小林隆二郎がいった。だから食うことはほかでやれ。

それに対して古川豪は,おれは歌というものを知ったおかげで,もしかしたらそれはほかのなにかでもよかったのかもしれないが,中学・高校と何もない空しいところで,これだけは確実にオレのもんやと言えるものを歌に見出した。そのおかげでもうネクタイしめることはぜったいできないようになってしもうた。歌以外では食いとうないが,おれの歌では食えへんが,板前などしてなんとか食うとる。だから,こんどのレコードから自分のわけまえはダンコとして取る。

それに対して隆二郎は,著作権法が若いひとたちがフォークソングやるばあいにどんなに障害になっているか,コンサートやるたびにJASRACからひとがしらべにきていて,他人の歌うたったら,どんどんその分を取っていくじゃないか。

さらにぼくがおぎなえば,いまの著作権法では,ひとの歌を曲でもことばでも何小節以上つかえば,印税をはらわなくてはならない。ということは替歌をうたったら,すごく金がかかるということだ。これは替歌を兵糧攻めにして公衆の面前ではうたえなくすることだ。ところが,あとでのべるように,替歌こそは民謡,いやフォークソングの本質は替歌にあるとおもうのだ。

古川豪のようなひとは,限界芸術としての歌から出発して,いまや芸術家としての歌というキビシイ道をあるきはじめてしまったのだ。シューベルトのように貧乏しながら,がんばるのだ。西欧音楽の歴史と,楽譜の印刷・出版の歴史とは切っても切りはなせないものだが,大ざっぱにいって,ベートーベンになって作曲家の著作権が確立した。ということは作曲家は演奏活動から金がはいらなくてもよくなった──分業の確立ということだ。金がからんでくるから,盗んだとか盗まれたとかいってややこしくなる。ところがフォークソングは,作詞/作曲/唄/伴奏/プロデュースが分業でないところが,フォークソングたるゆえんのものであった。だから,その延長線上で,中川五郎が編集者のひとりであった季刊『フォークリポート』1970年冬の号では,五郎自身が小説とマンガをかき,そのほか雑誌全体にわたって著作権を無視した盗品で満ち満ちていて,あきらかに,しろうとのしごとだとわかる。しかし,著作権に敏感なくろうとがやったら,あれほどおもしろくはならなかっただろう。そして,それほども売れもせず,高校生のあいだで評判にもならず,警察も補導の先生方も知らずにおわり,五郎がわいせつ罪で起訴されることもなかっただろう。著作権の件でうったえられなかったことは不幸中の幸であった。この裁判はいま進行中であり,前回検察側は500以上の証拠を提出したが,それらはほとんどすべて販売の事実しか立証しえないようなものであり,わいせつ性を証明するには『フォークリポート』1970年冬の号一冊さえあればこれですべてたります,と検事はいったので,検事側証人はひとりもいりませんネ,ハイ,という妙なことになってきた。次回は3月5日(水)午前11時より大阪地裁805法廷できっとおもしろいことになる。

ところで問題の中川五郎のフォーク小説『ふたりのラブジュース』に対する評価も,たいていのひとは「純粋または大衆芸術」としてしか見ない。鶴見俊輔をえらいとおもうひとでも,なかなか限界芸術の立場からフォーク小説なりフォークソングを見ようとしない。たしかにベートーベンやシューベルトのようなキビシイ純粋芸術の道や,親が死んでも恋人にふられても涙ひとつみせず,自分をお笑いの対象にさせる喜劇役者の大衆芸能の道とか,そういうものにはコンジョーがあるみたいで,遠くに眺めて憧れる見本としてはよいものなのだろう。しかし,ふつうのひとに必要なのは,ちかくにマネできるモデルがあることだ。

関西フォークソングの歴史は1966年に高石友也の登場ではじまるといえるとおもうが,彼ははじめのうちは,とてもたどたどしいみたいだが,とてもいっしょうけんめいにうたった。あれならおれにもできる,と多くのひとがおもってギターを手にうたいだした。岡林はFのコードがちゃんとおさえられないとか,五郎は音程がくるうとか。だけど,こういうひとたちが,マスコミによってスターとして雲の上にあがらされてしまうと,おくれてきたひとたちにとっては身近なところにモデルがいなかった。人間とアミーバだけ見ていては進化論は出てこなかったとおなじく,ジャリとスターだけではどうしようもない。そのあいだにサカナとかサルとか恐竜とか,とくにガラパゴス島にいたような個性的なトカゲとか,そういうものがいないと運動はつづかない。

そういういみで世の中一般はスターとか個人崇拝とか──そして批評家たちも高根の花にしか気がつかなくて──まさにそれは,防空壕のなかでヒトラーのまわりにうれしそうな顔してあつまってくる(または体育館のなかでディランのまわりにうれしそうな顔をしてあつまってくる)すべてのファシストを犯罪者でサディストとみなしつづけたところで,革命はあらわれない。われわれがしなければならないことは,彼らの主観的な高揚と,どんな客観的な問題もとけないという彼らの無能とのあいだの,コントラストをうきぼりにすることだ,とウィルヘルム・ライヒがいった状況だ。岡林信康の

わたしたちの望むものは……

をきいて高揚した二人の高校生は,その晩は家へかえらずに連れこみホテルにとまるということで,自分自身の無能から,高揚にむかって,客観的に一歩をふみだしたのだ。そしたら,たちまち,刑法175条でやられてしまった。そのご,この<フォーク小説>をよむひとは,興奮しないといい,つまらないという。彼らはどうやら,自身の無能を棚上げしたまま,無責任に高揚だけをもとめているようだ。それがポルノというものだ。

ふつうのひとが,いかにして,表現手段を獲得し,無能から一歩ふみだせるキッカケになるか。

たとえば,このあいだの関西フォークの歴史の総括の座談会で隆二郎は,基本的な三つのコードだけのかんたんな作曲法で,おれのいいたいことはなんでもいえる,といった。これは芸術ぶった奴らからはバカにされながら,このいわゆるスリー・コードで歌がつくれるという常識の普及は,フォークソングのひとつの柱だとおもう。「いつまでもスリー・コードだけで音楽的に進歩せず,ドギツイことばばかりでうたいつづけたから,関西フォークはすぐにあきられた」と,まことしやかにいいふらすひとがいても,それはウソなのだ。いつかCBCテレビの司会者はフォークソングを話題にして,さいきんこのての歌ははやりませんね,といったが,みずから民放連の要注意指定歌謡曲をまもって放送しないでおいて,よくもヌケヌケと,はやりませんね,だと。1969年7月12日,新宿地下広場の標識を「地下通路」と変更。19日,新宿西口のフォーク集会に機動隊が実力行使。フォークゲリラ小黒弘逮捕。8月27日付で「機動隊ブルース」「かっこよくはないけれど」「栄ちゃんのバラード」「くそくらえ節」「がいこつの歌」が民放連の要注意歌謡曲に指定され,放送できなくなる。この月かぎりでラジオ関西のフォーク番組「若さでアタック」消える。10月,文部省通達「高校生の政治集会:デモへの参加禁止」1971年2月,『フォークリポート』1970年冬の号発禁。これでもプロテストソングの衰退の理由に芸術性をうんぬんするのですか,アンタは?

歌というものを,詩と,音楽の,中間のジャンルとかんがえる。両極をとって,詩はことば100%の音響効果0%とかんがえる。音楽は音響効果100%の,ことば0%とかんがえる。すると,たとえば吉田拓郎の「人間なんてラララララララララ」というような歌はことばの量がすくなく,人間についての感情をララララであらわすには,音響的にひじょうにこらなくてはならない。しかし,これを,「人間なんて,どうせ死んだらガイコツになっちまうんだ」というふうにことばでいったとしたら,その分だけ,音響は手をぬいても,こころをつたえることができる。逆に,曲とか伴奏がぜんぜんなしで,ことばだけで,ひとを感動させようとしたら,とても慎重にえらばなくてはならず,たいへんに言語感覚がよくなくてはならない。ということは,歌という表現のジャンルは,そんなにことばがうまくなくても,そんなに音楽がうまくなくても,ことばと音響の相乗効果で,かなりの表現力をもつといういみで,とても非専門家むきだとおもう。

それからもうひとつ,歌というとすぐにレコードをおもったりするが,本人をまえにしての直接コミュニケーションだと,とてもつたわりやすい。しかし聴衆が多くなり,とおくからステージを見るようになると,いくらマイクがあっても,かなりうまくないとつたわりにくい。それがレコード,ラジオなど姿が見えなくなると,音だけしか手がかりがないから,とても音にこらなくてはならなくなる。そういうふうに場から独立することで,活字時代の芸術は,本,レコードなど,すすんできて,これらは本人がその場に存在するコミュニケーションの代用品であることがわすれられ,本やレコードのほうが本物であるような錯覚がうまれ,本物をさておいて,コピーだけのできばえをきそうような傾向がうまれた。しかしマクルーハンは,テレビはかえって本物に接したい欲求をつよめるといった。フォークソングや詩の朗読会,アンダーグラウンドの芝居やデモや座りこみなどは,本人がそこに存在することによるコミュニケーションの復活である。

さて,はなしを詩のほうへもどすと,パロディというのはひとの作品の特徴をまねて笑いものにすることだ。ところが「替歌」というと,元歌の曲節にことばをつけかえたもので,べつに不まじめでなくてもいいはずだ。この広い意味でも替歌は,特に才能のない普通のひとが詩とか歌をつくるときに,とてもたいせつな方法なのだ。いまの世の中では,ロマン派や個性主義がのこっていて,替歌ということは一段ひくく見られているが,一方では純粋芸術家たちは昔から海外のものをなんとかマネしようということばかりしてきた。

ひろい意味で替歌をかんがえると,替歌にはいろいろなレベルがある。たとえば

吉田通れば二階から招く
しかも鹿の子の振り袖が

 

という歌が近世にはやったそうだが

吉田通れば雪隠から招く
しかも片手に藁さげて

駿河屋通れば饅頭屋が招く
饅頭食いたい 金がない
(紀州子守唄)

などは笑わせることをねらった,せまい意味のパロディだろうが

鞆の沖通りゃ二階から招く
しかも鹿の子の振り袖が
(鞆節)

となると,べつに笑わない,替歌である。民謡のいちばん基本的な方法のひとつは,地名だけを入れかえて,自分の土地のものにしてしまうことだ。

伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ        
尾張名古屋は城でもつ
(伊勢音頭)

有馬湯でもつ湯は湯女でもつ
とかく山口紙でもつ
    *
坂は照る照る鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
(鈴鹿馬子唄)

坂城照る照る追分曇る
花の松代雨が降る
(信濃追分)

江差照る照る函館曇る
間の福山雨が降る
(江差追分)

三島照る照る小田原曇る
間の関所は雨が降る
(箱根駕籠昇唄)

これらと近いところに木更津甚句の

木更津照るともお江戸は曇れ……

そうなると,田原坂の

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

は,鈴鹿馬子唄と箱根馬子唄の両方から来た? というよりは,日本民謡のもうちょっと深層のところが,こういうかたちであらわれた?

箱根八里は馬でも越すが
越すに越されぬ大井川

民謡の「きまり文句」とか「くちぐせ」とかの問題になってくるので,いまは深入りをさけて,次にアメリカ民謡の「ジェッシー・ジェームズ」は列車強盗だったが,民衆の味方で

He took from the rich and he gave to the poor
持てる者から取り 貧しき者に与えた

ということになっているが,味方にうらぎられて不運な最後をとげた。ウディ・ガスリーはこれとおなじ曲にのせて「ジーザス・クライスト」のことをうたった。彼もまた民衆の味方で,金持ちや権力者をやっつけたが,さいごには身内のユダが裏切り,

...laid Jesus Christ in his grave.
(そして)墓にうめられてしまった
...laid poor Jesse in his grave.

というくりかえしまで,ジェッシーとジーザスはおなじだ。そして高田渡は1968年12月の三億円事件をジェッシー・ジェームズの曲をかりて歌にした。じつにユカイに銀行会社警察をだしぬいたので,貧しい者に金をくれなくても,この白バイのおまわりに化けたひとは民衆の英雄なのだ。こうなってくると逐語的には替歌ではないかもしれないが,発想がとても近いのだ。民衆の英雄というかフォーク・ヒーローの運命は,いくつかの型がきまってしまったようなものか。アーキタイプというべきか。太閤伝説でさえも,五大説教節のひとつ「愛護若」との共通点が林屋辰三郎たちにより指摘され,貴種流離譚という民族的発想形式のなかに,秀吉の流浪のすべてがかたりこまれているらしい。

つぎに,ガスリーがとくいとしたのは,むしろ,ジェッシーとジーザスのような似たような発想をおなじ曲でやるのではなくて,ワイルドウッド・フラワーの曲で,駆逐艦ルーベン・ジェームズ号の乗組員の名まえひとりひとりをあげてドイツの潜水艦はけしからんとうたったり,グッドナイト・アイリーンの曲でコロンビア河にダムができたことをよろこぶ歌をつくったり,とっぴょうしもない詞と曲をくみあわせることだ。高田渡がワバッシュ・キャノンボールの曲に,添田唖蝉坊のノミの歌をくっつけたりすると,あまりに遠いものの組み合わせなので,もとの曲をおもいだすのに頭をムリにうごかさなくてはならない。

聞け万国の労働者

というメーデーの歌が,もとは軍歌

バンダの桜 衿の色

だったということなども,指摘されるまで気がつかなかった。

それからイギリス・アメリカ民謡などの研究者によって指摘されるfloating verse というものがある。これはたとえば有名なバラド「バーバラ・アレン」でいうと,さいごには恋人はふたりとも死んでしまって,

One was buried in the high churchyard,
The other in the choir:
On one there grew a red red rose
On the other there grew a brier.

They grew and grew up the old church wall
Till they could grow no higher;
And there they locked in a true-lover’s knot,
The red rose and the brier.

ひとりは教会の墓地に
もうひとりは教会の中に埋められた
ひとつの墓からは赤い赤いバラが
もうひとつからは緑の茨がはえてきた

それらはのびてのびて壁のてっぺんまで
とどいてそれ以上はいかれなくなった
そしてそこで恋結びにむすばれた
赤いバラと緑の茨

だけどこれらの詩節は花粉や種のように空中をただよって,「アール・ブランド」「ロード・トマスとうるわしのアネット」「ロード・ラベル」のような悲恋のバラッドのおわりに根をおろす。

日本の民謡研究には floating verse にあたることばがないのではないかとおもっていたが,現象としては

めでためでたの若松さまよ

のように,すごくたくさんある。「これは各地の祝宴の席で欠かさずうたわれるばかりでなく,<長持唄><地形唄(地搗唄,胴搗唄)><餅搗唄><田植唄><苗取唄><代かき唄><木挽唄><臼摺唄><臼搗唄><麦打唄><たたら踏唄><味噌搗唄><豆腐すり唄><船頭唄><護岸工事唄><馬子唄>」等々の作業関係の唄の中でもさかんにうたわれ,その他,盆踊や田植踊,獅子舞などの踊唄としてもしきりに用いられている」と仲井・丸山・三隅共編『日本民謡辞典』(東京堂出版,1972)にはある。そうしてこの辞典には類型歌詞ということでいちおう次の37項目を見出しにあげてある。

  • 朝の出がけに
  • 朝水汲めば 
  • あすはおたちか
  • 碗はいらぬ
  • 伊勢は津でもつ
  • 伊勢へ七度
  • 男後生楽
  • 音ばかり
  • 踊おどらば
  • おまえ百まで
  • 及びもないが
  • おらが若い時や
  • 笠を忘れた
  • 鎌倉の
  • 今日の誇らしや
  • ここのおうちは
  • ことし豊年
  • こんど来る時や
  • 坂は照る照る
  • 十五七
  • 正月様
  • 大黒様という人は
  • 高い山から
  • 唐土の鳥は
  • 涙で出たが
  • なりそか切りそか
  • なるかならぬか
  • 主の来る夜は
  • 程のよさ
  • 本町二丁目の
  • 〜舞を見さいな
  • 前は海後は山
  • 向こう通るは
  • 胸に煙が
  • めでためでたの
  • 吉田通れば
  • 淀の川瀬の水車

こうなると,きまり文句とか,詩における口ぐせ,というようなことになる。きまり文句というのは,叙事詩などを口がたりするときに,頭のなかにある話の筋を,韻律にあわせて,その場で,いわば即興演奏するときに,きまり文句にあてはめていえば,韻律にのれる。このことはバルカン半島やギリシアで活躍中の吟遊詩人のうたいぶりを研究しているうちにミルマン・パリー教授たちによってあきらかにされたことで,ホメロスもきっとこうだったにちがいないということだ。コサックやトルコの詩人たちもそうらしい。日本でも平家物語などそうじゃないかとおもったが,現平家物語はちがうが,ゴゼのうたとか,そういうところから山本吉左右が「説教節の語りと構造」ということで,東洋文庫の『説経節』(平凡社,1973)の解説にかいている。

とくに語りがはじまるところは,しきたり的に

ただいま語り申す御物語,国を申せばナントカの国……

というようなぐあいにきまっているが,アメリカ民謡でも,

Come gather ’round friends
And I’ll tell you a tale
おいでみなさん
聞いとくれ

というような出だしは多い。ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」は,民謡調でこうはじまる。ボロこと真崎義博の訳によれば

おいでみなさん聞いとくれ
はり紙だらけの炭坑町
年寄りだけしか残らない
こんな話を聞いとくれ

それをつかって中川五郎は「受験生のブルース」

おいでみなさん聞いとくれ
おいらは悲しい受験生
地獄のような毎日を
どうかみなさん聞いとくれ

しかしディランの曲はマイナーで暗すぎるからといって,高石友也にC調で別の曲をつけさせてレコード化したのがヒットした「受験生ブルース」(しかしこんどの『関西フォークの歴史』では五郎がもとのでうたっている)。そして,それには無数のナントカのブルースという替歌がうまれたが,いちばん有名なのは,なんといってもフォークゲリラのレパートリー「機動隊のブルース」

おいでみなさん聞いとくれ
ぼくはかなしい機動隊
砂をかむよな あじけない
ぼくのはなしをきいとくれ

これはせまい意味でのパロディだ。それから五郎の「主婦のブルース」はアイルランド民謡”House-Wife’s Lament”の曲をつかっていて,発想の暗示をうけているので,ジェッシー・ジーザス型だ。

じっさい関西フォークの最盛期はまた同時に替歌の最盛期でもあって,『かわら版』1969年2月号は特集をしている。

さいごに,柳田国男は,民謡が生きているか死んでいるかの見わけ方は

現実に今でも群によつて歌はれて居る民謡は,同時に又成長しつつある民謡とも言へる。去年の踊の夜にはあゝは言はなかつたといふ場合もあらうし,あすが日来て聴けばもう文句が少しちがふといふ場合もあり得る。

と「民謡覚書(一)」でいっている。そして,民謡は古くなれば,廃止せられる方がむしろ普通で,だから民謡が生きているということは

民謡はいつの世にも必ず現代語にうたひかへられ,少しでも意味が不明になれば改刪され又は廃棄せられる。たとへ誤解にもせよ歌ふ者はよくわかった積りで居り,子供か子供に似た者で無いと,わかりもせぬのに口真似だけはしない。

ということは,いつも替歌しているということだ。たとえば

おまえ百まで わしゃ九十九まで
ともに白髪のはえるまで

という唄も,地域的分布の広さからいっても代表的なものだし,分類上のあらゆる種類の民謡にはいりこんでいる類型歌詞だが,むかしの『山家鳥虫歌』の採録では“おまえ”が“こなた”という時代方言であらわされている。

こなた百まで わしゃ九十九まで
髪に白髪の生ゆるまで

大阪府の旧九個荘村では「あんた百まで……」というふうに,同じことばが地域方言になっているそうだ。また

高い山から谷底見れば
おまんかわいや布さらす

では,おまんは固有名詞と感じているようだが,元来は鹿児島あたりでつかう“おまはん(お前さん)”という二人称の代名詞である。鹿児島ではさらに“おはん”ともいう例があるが,そのうちにだんだんと実在の人物とかんがえられるようになってきた,と『日本民謡辞典』は説明している。ムカシムカシではじまり,きちんとおわりのことばで結ぶという形式をもち,一言一句変えたりしないようにおもわれていた昔話も,稲田浩二『昔話は生きている』(三省堂,1970)によれば聞き手や時と場合によって,ふくらんだり,そっけなくなったり,それが伝承が生きているということで,はなしにしろ,うたにしろ,聞き手も,やる方も,たえず変えることで,生かしているのだ。替歌はもっとも本質なのだ。

(『現代詩手帖』1975年3月号)