京都精華大学意味論クラス

投稿日 2005年8月11日

京都精華大学2005年度前期の意味論クラスでのまとめを7月14日に学生たちは次のように書いた。 ここにあげた8例は, ことばは使い手なしでは意味を持たないというオグデン=リチャーズの意味の三角形の理解を示し, コンテキストという語は使わないにしても, 意味がどのようにして発生するかを彼らなりにわかっている。
授業のペースが生徒むけというか, 生徒が歩いていく感じで, 最初焦ってたより理解できた。
日常生活で普通の行動をしている時, たまにイミ論の話を思い出して何らかの影響を受けてるんだなっと感じた。(YY)
私はデザインン科なのですが, 現在ピクトグラムの制作を行っています。 私がしているのは植物園のピクトグラムで, どこにどんな花があるのか案内するものです。
ピクトグラムはその絵を見て, すぐにそれが理解できる必要があるのですが, 全く知らない花は, 理解されないので, とても難しく, 非常口のマークなどはとてもよくできていると思いました。 しかし, 一緒に植物園に行った人には, たとえその花の名前がわからなくても「○○にあったやつ」とか「まるくて,ふわふわしてるやつ」といった,ちゃんとした名前を言わなくても通じていたので,これが先生がいっていた”流れ, 共通で知っている”ということなのだと思いました。 (KS)
授業を受ける前は, 言葉というものには大きな意味があるものだと思っていた。 しかし今は言葉そのものにはあまり意味は含まれていないことを知った。
意味が発生する場所は, その言葉を見た人, 聞いた人の中だ。 よって, 人それぞれにとらえ方が違う。 言葉は個人の過去や感性を引き出すための無意味なパスワードでしかないことに気づいた。 そして意味とは, 自分と他者という二つの存在がいて初めて成り立つものだ。…(IJ)
モノとコトバは, それぞれ単体では存在することは不可能だと気づいた。 そのつなぎに視覚や臭覚などの五感+αがいりまじって成立する。 りんごなら”赤い”とか”甘ずっぱい”とか。 私たちは言葉を巧みに操っている気になっているだけで, 実際には言葉では表せない感覚にかなり頼っていることがわかった。 つまり, ことばだけでは限界があるということだ。(AS)
知らない人達との交流に少なくとも慣れた。(HY)
また前, 私は…友だちとしゃべるときは自分からもっとしゃべる方でした。 授業をとって他の人が考えることとか自分ではぜったい思えられなかったことをみて, 友だちと会話で人の話をきくことが楽しくなりました。(PC)
今まで, 考えようともしなかった。 そこにあるものはそこにあるもの, あたり前のように, 思っていた。 辞書に乗っている言葉を至上のものとしていた。 (SS)
考えることをほとんどしてなかった。 むしろ考えることはめんどくさく, 自分の感覚・直感だけで生きてればいいと思っていた。 しかし, その直感も感覚も, 考えることなしに存在しないとわかった。(YN)