ユズルはなぜ英語教師になったか?

投稿日 2013年3月22日

ユズルの『基礎英語の教え方』という本が近く松柏社から出る準備中だが,そのなかの吉沢美穂さんとの出会いの章から一部分を下記に紹介します。

じつは東京女子大のチャペルさんのところへ行ったのは, 吉沢美穂さんの講習を知るよりもずっと前に, ベーシックのことで話を聞きに行った。 土居光知の 「終戦以後のBasic English」(『英語青年』1951年4月号, 5月号)で, Miss Chappellが熱心なBasic Englishの賛成者であることを知ったからだった。 彼女はベーシックそのものよりは, “foundation of English”として興味がある, と言った。 そしてベーシックで書かれた An Outline History of the United States を”This is my gift,” といって,”To Mr. Katagiri”と書いてくださった。 じつは津田塾大学へも土居光知に会いに行った。 彼の文章の何にそれほど感激したのかと,読みかえしてみたのだが, だれにもわかる話しことばで力づよく思想をつたえる道具としてBASICを位置づけしたい,という思い入れをもちながら, わたしはそれを読んでいたようだった。 同じく1951年の『英語青年』には, さらに5月号と6月号にわたって加納秀夫の「ハーバート・リードの『平和教育論』」があり, わたしはそれを読んで決定的に教師になることにしたのだった。 ところがリードの平和教育の主な方法は美術教育で, くわしくはEducation Through Art(1943)という本に出ていたのだった。 わたしは絵かきではないので困ったことであったが, その路線でなくてもいけることを, BASICが大きな枠組みで見せてくれ, GDMが実際的な細かい手順をおしえてくれた。

1950年代のなかば以後から「オーラル・アプローチ」ということがいわれるようになって,しばしばGDMはそれとどう異なるのかたずねられることが多くなってきた。 吉沢美穂さんのこたえは: オーラル・アプローチは「言語学」にもとづいていますが,GDMは「意味論」にもとづいています, といった。当時の学界では構造言語学だけが「言語学」のすべてであるような顔をしていたことをわたしたちは知らなかった。 またオグデン&リチャーズの三角形の「意味論」が, 他の哲学・論理学的な意味論とか, 一般意味論とどのように異なるのかもはっきりしないままであった。 一般意味論のながれからS.I.ハヤカワの『思考と行動における言語』の日本訳が1951年に出て, そこにあった報告の言語と感情の言語についての議論に, 早稲田大学英文科の学生だったわたしたちはひきつけられた。 戦争中に軍国主義の「ことばの魔術」にひっぱりまわされた記憶もきえないうちに, アメリカとソ連は自分こそが正義であり平和の味方であると言い争いはじめていた。 客観的な報告の言語ではなしあう練習をしなければならない, とおもった。 感情的ないいかたを, その感情をひきおこした原因の事実にもどることで, 報告の言語にいいかえることにより, 語彙を制限して成立したべーシックは, そのためのすばらしい道具だとおもった。 その道具のつかいかたを学ぶ方法として, GDMがそこにあった!

アメリカ文化センターの開架式図書館のオープンな感じは1950年代としてはまだ珍しく,さすがは民主主義の国アメリカとおもわせるものであった。 そこでわたしはリチャーズのNations and Peace (1947)という本をみつけた。 戦争をなくすにはどうしたらよいかを near-BASIC とマンガで論じたものだった。 彼は1950年に北京を訪問し, 300人の聴衆をまえに中庭でホメロスのイリアッドを near-BASICに訳した”The Wrath of Achilles”を2時間にわたって演じた。 その帰り道, 9月に日本にたちよった。 今からかんがえると,それは1949年に中国共産党が大陸から蒋介石を追い払った直後であり, 1950年になるとアメリカではマカーシーによる赤狩り旋風が吹き荒れた。 そのような時にリチャーズがよくもそのようなことをしたもんだ!? アメリカ国務省が強力に後押しして外国語としての英語教育を世界中にひろめたときにGDMがまったくかえりみられなかったこととか, 国務省発行の英語教育関係書目録にEPは1960年以後のっていないこととか,リチャーズの訪中と関係があるかもしれないという疑いをわたしはもっている。