すごい雪だった。三〇センチもつもっただろうか。うすぐらい。コタツで新聞をよんでいる。オークラダイジンがピストルでころされた──オークラダイジンてなに?──お金をもっているいちばんえらいひと──いちばんえらいのはソーリダイジンじゃないか──そのつぎにえらいひと──ふーん。ダイジンというものはころされるんだな、なりたくないな。父はぼくをつれてオギクボの教会へいくといって三鷹から電車にのったが吉祥寺までしかいかなかった。しかたなしに井之頭動物園へいったが、しまっていた。
イタリーがエチオピアと戦争をはじめた。九一式戦闘機がとんでいた。いもうとがうまれた、男でなくちゃ兵隊ごっこできないからつまらない、といっておこった。
雪ケ谷へひっこした。セーフ軍てなあに? と風呂にはいりながらきいた。お金をもってる方の軍隊のこと。ふーん。マドリッドなんていう地名がよくラジオからきこえてきた。とにかく雪ケ谷にいたときはおもしろかった。ある日とつぜん、父をダディー、母をマミーとよぶことになった。父は英語の先生だったが、いつも「プレス」したダブルの洋服をきて、かっこうよかった。それまではおばあちゃんがいちばんえらくて、親たちはほとんど呼名もない存在だった。ダディーは三三歳、自分のことを「ぼく」とよぶことになったぼくは七歳。それで小学校へはいるのだ。昭和一二年七月七日ロコーキョーで演習していた日本軍に支邪軍が発砲。「支那事変」がはじまる。ぼくがうまれたのが昭和六年、満州事変のはじまった年。昭和七年、上海事変。講談社の絵本、定価五〇銭。いろいろあったが、やはり戦争のものが「血湧き肉躍る」。伊藤幾久造先生画、村上松二郎先生画。満州はさむくて毛皮のついたぼうしなんかかぶって、ふとっていて、かっこうわるい。上海事変──陸戦隊、かっこういい。だけど爆弾三勇士、自分で死ぬのはいやだな。
はじめてチコンキというものがうちへきた。どのレコードも、みんなおなじひとの写真のついた袋にはいっている──東海林太郎、灰田勝彦。リンゴーの木のしたで、あしたーまたあいーましょー。軍歌がほしかった、だけど軍歌はなかった。
東洋平和のためならば
なんでいのちがおしかろう
「露営の歌」はあまりかっこういいとはおもわなかった。
また三鷹へもどってきて、学校をかわった。大きくなったら何になるの? ときかれて、みんなは兵隊さん、とこたえていたが、ぼくは死ぬのがいやだから、兵隊さんとはこたえられず、だまって、もじもじしていた。
三年生まで女の先生だったが、四年生から男の先生が担任になった。ある日とつぜん彼は黒板に
皇国民の錬成
とかいた。そして小学校ではなく「国民学校」というものになったのだ、ということを熱っぽくしゃべった。つよくなくては戦争に勝てないのである、これからびしびし鍛え、もって大御心を安んじ奉るのである。彼は幼年学校をジンゾウがわるくて中退したが、皇室関係のことが出ると幼年学校などではハッと姿勢をただすのだ、といった。成績のわるい生徒や、女の子のスカートをめくったとか、そういうことでよくなぐられたが、ぼくはスカートのしたがどうなっているかということよりは飛行機や軍艦や山中峯太郎に熱中していたし、算数も書き取りもよくできたから、なぐられたことはなかった。
ある日、カタギリちょっと、というので放課後、なんですか先生? といくと、いきなり「しらばっくれるな!」と、グヮーンと横っつらをはりとばされた。大の男が小学生を力いっぱいはりとばしたのだから、よろよろとよろけると、こんどは「逃げる気か」といって、また右から左からはりとばす。まったくなんのことだかわからなかったら、「便所そうじ、さぼったな」と彼はいった。しらばっくれるとか、さぼる、とかいうことばはそのときはじめてきいた。けっきょく、ぼくが大便所のそうじ当番をすませたあとで、よそのひとがはいって、ものすごくよごしたらしいのだが、それを彼はぼくがさぼってそのままにしたとおもったらしい。「しました」といっても「うそつけ」といって、なぐる。世界中がぐらぐらゆれて、涙が床の上に水たまりのようになった。
もういちどは、そのころ隣組というものができたが、子どもたちもそれのまねで、子どもの隣組をやらされた。それの班長にさせられて、班長ばかりが日曜日にあつまって、なにかの相談をした。日曜日をつぶされたことでむしゃくしゃしていたぼくは、だじゃれをとばしたり、おかしなことをいってみんなをわらわせたりして、それでけっこうごきげんになった。ところがつぎの日よびだされて、きのうのことを反省しろ、といわれた。だじゃれは、ヒデオ先生がとくいとするところで、いつもみんなをわらわせていたので、それのまねをしてどこがわるいのか、ぜんぜんわからなかった。このことはある女の子が日記に「カタギリさんはふざけてばかりいました」といいつけたからだった。ある同情ある友だちは、ヒデオ先生の日曜学校へいかないから、にらまれてるのだろう、といった。彼はクリスチャンで、自分のうちで日曜学校をしていたが、日曜はあそびたいから、ぼくはいかなかった。偶像崇拝はいけないことだ、とうちのおばあちゃんはいった。神社におじぎするのも、宮城よう拝するのも、偶像崇拝だ。それならヒデオの日曜学校と、天皇陛下におかれましては、というときに姿勢をただしたり、修身の教科書をひらくときに、おしいただいたりするのは、どういう関係なのだろう? ヒデオを暗号でヒデコとよんで憎んでいる秘密結社にぼくはいつのまにかはいった。それは力はゴリラのようにつよいけど勉強はぜんぜんできないやつとか、体がよわくていつもヒデコからけいべつされているやつとかで、海軍をかっこういいとおもっていた。
けんかはいいことだともおもっていた。なにしろ戦争は国と国のけんかで、日本はいつもやっているのだから。けんかをして先生にしかられるのは、なっとくがいかなかった。しんせつにすることはめめしいことで、らんぼうなことばで下級生の女の子たちをどなりつけた。学校からかえるときは方面ごとに整列して道をあるくようなことになっていた。わるいことばは講談社の少年講談の軍神ナントカというようなところからまねをしたが、母親はなげいた。
ヒデコのうちへはじめていったとき、はなれの書斎の壁いっぱいが本棚でいろいろな本があるので、あんな本もある、こんな本もあると見ていると、「キョロキョロするな」とどなられた。
中学校へはいると軍事教練というものがあって「不動の姿勢は教練基本の姿勢なり」で目玉もうごかしてはいけないのだ。わざと目の前を教官があるいて、どうしても本能的に目はうごくものを追うのだが、うごかすとなぐられる。それでも小学校のときほどなぐられなくなった。なぐられるやつは、いつもきまったやつが、目のかたきにされ、なぐられた。いちどにらまれたら、じっさいにはなにもしていなくても、ナニヲシトルカー、といってなぐられた。一方、いちど良いとおもわれたやつは、わるいことをしても、大目にみられた。プールのかえり道でアイスキャンデーなどたべると、教官のひとり、軍帽のひさしをまぶかにかぶった「ゲー・ぺー・ウー」が見はっていることを、われわれはおそれた。彼は終戦後いなかにかえって校長になったそうだ。もうひとりの教官アシガラは、教育委員になったそうだ。おそろしいことだ。それから体操の平林先生もゆるせない。彼は戦後いっしょうけんめいに組合をやっているときいたが、ぼく自身が教員になるまえは、そのことで日教組をもうたがいの目で見た。
教練がはじまったら鉄砲をうてるだろうということを、われわれみんなたのしみにしていた。しかし十中は射撃はすごく点がわるく、銃剣術がすごくつよかった。しかし銃剣術はガニマタで、へんな声をだして、かっこうわるい。戦争も末期になると、米兵は背が高いから、上のほうをねらえ、などと銃剣術でおそれるようになり、現実感がでて、こわくなってくる。
節約とか代用品とか「ほしがりません勝つまでは」なのに、なぜ教練はゲタではいけなくて、革グツに固執したのか──国策に反しているではないか。それにゲタは日本固有のもので、クツは西洋から来たものなのに。
中学二年の一二月、B29が日本の上空を偵察飛行するようになったころ、まちにまった工場へ動員。勉強しなくてもいい──ウレシイ。ところが本土決戦などということがいわれだすころになると、工場の行きかえりは整列してあるき、上官とか先生を見たら「歩調とれ。かしらー右」とかしなくてはならない、ということになった。これには不満もあったようだが、ある友だちが「そこまで自由を束縛することないじゃないか」といったのに力を得て、「ぼく自由がすきだ」とあいづちをうったら、「じゃあ、おまえアメリカへいけ」というこたえがかえってきたのはがっかりだった。
中学三年生になっても、もう勉強なんかぜんぜんしないで軍艦と飛行機の模型をつくったり図面をかいたりすることに夢中だった。上の学校のことなんて、ぜんぜんかんがえられなかった。軍の学校へいくことをかんがえているやつはいた。上の学校の試験勉強してるやつをぼくは白い目で見た。あとでかんがえるとじつにたいはいの極に達していたとおもう。
あのころの記憶をかかせたら村田正夫(一九三ニ〜)にかなうものはない。彼の『戦争/詩/批評』(現代書館一九七一)をすすめます。
『思想の科学』No. 127(1972年2月)より