「言語と想像力という雑誌『人間として』の特集にぜひ書いてほしいといわれて,どうしようかとおもっている」
「書いたらいいじゃありませんか。現代詩文庫で『片桐ユズル詩集』も出したことだし。詩のことばにかぎらず,話しことば,さらにフォークソングや集会などでの若い人々のことばなどから,今日のことばの中に,何か新しい可能性があるのか,どうか,そういう視点から書いたら?」
「このごろ,あんまり,失語症的になっていてね,かきたくないんでね。とくに顔の見えない読者には何をいっていいのかわからない」
「それなら顔の知ってる人を読者に想定して書いたらいいじゃないですか」
「ところが顔しってる人たちは『人間として』なんて読みっこないとおもうんだ。綜合雑誌のような活字をよむ人間と,フォークソングやっているような指先人間との裂け目はまだまだ大きいね」
「活字時代はおわって,あたらしい時代のメディアとしてユズルさんはフォークソングを評価していたのではなかったのですか。そしてフォークソングによって,いままで活字的レールにのらなかったひとびとが,自分自身の思想なり感情なりを表現する方法を得た」
「それは,のびなやんでる,とおもうよ」
「どうしたらいいのですか?」
「壁は予想以上にあついかもしれないよ。このあいだ詩集が出たから,朗読会をした。ぼくは新しい作品ないからね,ほんとうは,むかしの作品なんて,はずかしいもんだ。だけど,がまんして読んだ」
「へえー,がまんのきらいなユズルさんが?」
「そうなんだ。というのは,あまりにも,世の中に,良いニホンゴの詩がないからね。フォークやってる連中に,これこそ読め,といって,すすめられる詩人なり詩集ってものが,まるっきりないんだな。それで,いささか古いけど,ほかのよりはましだとおもって,ぼくの詩集の存在理由はあるとおもって,まあ,一種のモデルというか,わかりやすいことばの詩を,彼らにバトン・タッチしたかったわけだ。
それで大阪のナンバ元町のディランという喫茶店で,ここはフォークの連中がたまり場にしているところなんだけど,そこで朗読会をした」
「それで,反応は?」
「ぼくの詩はずいぶん高級なんだな,とおもった」
「そこなんですよ。やさしいことばをつかったからといって,やさしいことにはならないんですよ。むつかしいことには,それに応じたむつかしいことばをつかったほうが,スムーズにはいると,こうおもうんですがねえ」
「たしかにフォーク運動なんかでも,いちばん受け入れられやすいのは,むつかしいことばで,やさしい,きまりきった内容のことをいうときみたいだ。
だけど,やさしい日常のことばで書いておけば,そのつもりのあるひとは,すこし苦労しても,ついてこれるのではないか? それに対して,むつかしいことばは,専門の訓練をうけた人間でないと,ほんとうは,はいれない。
このあいだの朗読会で残念だったことは,討論のほうが,ぜんぜん,<討論用>の抽象的なことばでなされてしまったことで,いまだに<かんがえる>とか<討論>とかいうと,身がまえしてしまって,それ用のことばにギヤ・チェンジしてしまうんだな。
フォーク運動のなかだって,ほんらいフォークは口先人間が支配する社会に対して,指先人間が自己主張したプロテストだとおもうんだが,フォーク・ゲリラなどの内ゲバでは,かえって口先人間のレールにのってしまっていただろう」
「いまのギヤ・チェンジのたとえはおもしろいですね」
「いや,たとえとしておもしろくても,じっさいとはなれるといけないから,ひっこめよう。ことばはやっぱりメカニックなものにたとえてはいけないのだろう──なにか生物学的なもののほうにちかいんじゃないか。
それで,さっきの話のつづきだけど,児童英語のことをたのまれて朝日新聞の阪神・神戸・姫路というページにかいた。やさしく書いてください,というから,やさしく書いた。紙面にあらわれたものは,また,かなり書きなおされ,もとの意味とちがうところが二,三箇所あった。新聞記者に文句をいうと,むつかしすぎるから書きなおした,という。ことばはやさしいけど,あれでは考えなくてはわからないから書きなおした,という。だけど,そんなことやっていたら,いままでに知っている常識より一歩も先へいかないじゃないか」
「それがジャーナリズムというものですよ。ジャーナリズムを定義して,あたらしい知識をつけくわえるようなふりをしながら,じつは,なにもあたらしいものはつけくわえない」
「そうなんだな。さっきのディランでの討論だって,むつかしいことばをつかっても,なにひとつあたらしいことは得られなかった。しかし,きょうはいろいろ話しあえて有益だった,というひとがいたよ。錯覚で満足してるんだな。
だから,ぼくにいわせれば,日常の手なれたことばでかんがえれば,そういう錯覚はおこりにくい。ヒコーキだって自動車だって,行くところによっては,そう便利なものではないだろう。自動車は駐車場をさがしたり,そこまであるかなくてはならないかもしれないし,ヒコーキときたら,飛行場なんてものは,だいたい都心になんてあるはずがなくて,どこか,とおい,不便なところだ」
「それはどういうことですか」
「つまり学問や思想のむつかしいことばは自動車やヒコーキみたいなものかもしれない。それで,もう,高速道路なら高速道路という通り道がきめられてしまっていて,そうでない横道へそれるということが,つまり歩くという日常語をつかうようなことでも,とてもむつかしいように,おもいこまされている。かんがえるということは,やっぱり,自分の体をつかうことだろう」
「自分の舌とかペンとかだけでなく,不随意筋のうごきを考えにいれた哲学をつくりたい,と鶴見俊輔がいっていますね」
「『思想の科学』6月号の哲学の入門以前のはなしだね。あれとか『死んだ象徴』とか,さいきんの彼の文章は,大学をやめてから,とても自己実現的みたいだね。いままで抑えられていた要素が,大学をやめたら,大手をふって歩きだしたみたい。だけど,ぼくは,ああはいかないな」
「どういうこと?」
「ライターにはなれないってこと,やっぱりティーチャーだとおもうんだ。ライターは読者の顔が見えなくても書くでしょう。だけどティーチャーは,ひとの顔みながらの相互交通のコミュニケーションでないとね」
「人を見て法を説け,ですか」
「まえはいいことばだとおもっていたけど,このごろいやな面もわかってきた。ひとつはフォークにあつまる指先人間──彼らにはなしかけることばを,ぼくはもたない。さっきいったでしょう。
それから,もうひとつは,これは仏教のいやな面なのかな──このあいだ禅寺へ老師のはなしをききにいった。そうしたら,善男善女というか,じいさん,ばあさんが,百五十人から二百人ぐらいあつまって,日曜の朝の説教がある。それから,そのあとで,われわれ数人が老師をかこんではなしをきいた。そのときの大衆向けと,エリート向けの話しがちがうんだな」
「おなじことを,やさしくいったり,むつかしくいったりするのではないですか」
「そうじゃなくて,大衆は大衆としてバカにしきって,このくらいでよかろう,みたいなところが感じられるんだな。複雑な認識をふくんだまま,相手のレベルに応じて,わかるところまでわかる,というんではないんだ。はじめから切りすててるんだな」
「顕教と密教ですね」
「キリスト教ではどうなのだろう? バイブル・クラスてえものは,ひとりひとりが,あいだにボーズの雑音をいれずに,原典に直接あたる,ということからはじまったのだろう? このほうは民主的みたいだけど,同時に,民衆ひとりひとりの能力を買いかぶりすぎているかもしれない」
「グーテンベルグの聖書とともにはじまった活字主義的態度ですか」
「そうなんだな。字さえよめれば,本さえよめれば,知識さえあれば,なんでもできてしまうような錯覚は」
「でも,いつかユズルさんは,第二次大戦だかのヨーロッパをのがれて,ぜんぜんしろうとがヨットにのって,大西洋をわたってアメリカへついた話をしていたでしょう。よく,しろうとばかりで,こられたな,といったら,本にかいてあるとおりにしただけです,とこたえたという」
「ことばでつたえられる部分というか,つたえやすい部分があるな。そのヨットの話はことばの勝利というか,グーテンベルグばんざい,という例だね。
ところが,その反対に,アリスと子ジカのはなしがある」
「なんですか,アリスと子ジカって?」
「アリスが鏡の国で,物の名まえがなくなる森の中へはいる。すると<森>とか<木>とかいう名まえまでもわすれてしまう。
「・・・さて,わたしはだれでしょう? できたら思い出してやるわよ──」でも,そう決心しても,たいしてききめはありませんでした。さんざん頭をひねったあげく,やっといえたのは,「リ──それはリの字で始まるんだわ!」
ちょうどそのとき,子ジカが一匹ぶらぶら通りかかりました。大きなやさしい目でアリスを見ましたが,いっこうに驚いた様子はありません。「さあ,おいで! おいで!」と,アリスは手を出して,なでようとしました。子ジカはあと少し飛びのいただけで,そこからふたたびアリスを見つめています。
「君はなんというものなの?」と,ついに子ジカがいいました。とてもやさしい気持のいい声でした!
「それがわかりさえしたらねえ!」とアリスは思い,いくらか悲しそうに,「ちょうど今は,なんでもないものなの」
「もう一度考えてごらん」と子ジカ,「名まえがなくてはぐあいが悪いよ」
アリスは考えましたけれど,何も思いつきません。「あんたこそ,なんというものなのか教えてくれない?」とアリスはおずおずといいました。「そうしたら,いくらか,わたしの思い出す足しになるかも知れないわ」
「もう少し先へ行ったら教えてあげるよ」と子ジカがいいました。「ここでは思い出せないんだ」
そこで二人は,いっしょに森の中を通って行きました。アリスは子ジカのやわらかい首に腕を回し,愛情をこめて抱きしめていました。ついに別の広々とした野原に出ました。ここへ来ると,子ジカはとつぜん宙にはね上り,アリスの腕からすり抜けました。「ぼくは子ジカだ!」と喜びの叫びをあげました,「おやおや,君は人間の子供じゃないか!」とつぜん驚きの色が美しい茶色の目に浮かびました。そして次の瞬間,全速力で飛んで行ってしまいました。
つまり名まえが経験を追いはらってしまうんだな」
「どういうこと?」
「たとえば,したしくつきあっていた人間が,じつは<チョーセンジン>だったり<部落>出身者だとわかったとたんに,こういう感じにとらわれるひとがいるかもしれない。それから男と女が,すごく話が合って,いい気持でつきあっていたが,ふと,これは<恋>ではないか,とおもうと,とたんに,ギコチなくなってしまうとか,デモにいって高揚した気分になっていたのに,それは自分自身の判断力をマヒさせられているのだよ,といわれて,そうかな,はずかしいことをした,とおもったり」
「ことばについて,ずいぶん否定的なんですね,ユズルさんは」
「ライターじゃないからね。ライターは,ことばだけにたよるわけだが,ティーチャーは,もっとほかのものにも,たよるからね」
「そうすると,デッチ奉公みたいなものにも賛成ですか?」
「本ですべてわかる,というのはまちがいだろう。本は知識はあたえても,わかった! ということはあたえない。≪わかった!≫は,やはり体験するよりしかたない。セックスのいい気持さは,ことばでいえないだろう。世のなかには,ことばでいえない,たいせつなことが,たくさんある。去年の今ごろ『展望』にでたダグラス・ラミスの「脱出=ボブ・ディラン論」によれば,LSDとかマリファナは,どこかへ行けば言語の外になってしまうような場所がある,という実感をあたえる。この論文は室謙二編の『時代はかわる──フォークとゲリラの思想』(社会新報社)に再録されているが,この本もまた,誤解されている。フォーク・ゲリラのきわめて政治的な主張だとおもわれているが,じつは歌をふくめて,芸術を根底からかんがえなおそう,というきわめてがっちりしたものが,口先人間ベースでしかれた思考のレールを往復運動するにすぎない指先人間のフォーク人口は,そうはとっていないみたいだ。192ページをよんでみよう。
『マルクーゼが最近の演説でいっているように<……腐敗した政治的宇宙の言語と行動のパターンから脱出すること……はほとんど超人間的なしごとであり,ほとんど超人間的な想像力を必要とする>』
「ほら,ごらんなさい。指先人間が口先人間のレールにのせられた,とユズルさんはおっしゃるけれど,そこから脱出するには超人間的努力がいる,というではありませんか?」
「だからクスリというロケットにのって,引力圏外へ脱出するのさ。ラミスはいっている,すべてを権威的把握におしこめてしまう言語からの解放の第一歩,なにか新しいものの創造をおもいえがこうとするためには,ことばがまだいったことのない場所まで想像力をおしすすめていくことが必要だ,と」
「すると,ことばによらない想像力があるというのですか」
「ことばにならないものは思想の名にあたいしないとか,それは西欧思想のもっとも悪い部分だな。ハクスリーによれば,西欧の思想家はおしゃべりで,しゃべりすぎだ。東洋の思想家は,口べたで,行動でしめす人が多かった」
「沈黙は金とかね。だけど,だまっていては,なにもわかりませんよ」
「おしゃべりも,なにもかえはしないじゃないか? 錯覚をあたえるだけ,わるいかな?」
「かえるのは行動ですか? では行動へかりたてることばというのは,どういうことばでしょう?」
「かりたてることばは魔女狩りのことばかな? そうでなくて,もっと地道に,行動の指針となるようなことば──それはきっと,コトバが先にあって,あとから経験がくっついたようなコトバでなくて,経験が先にあって,それをつたえようとして出てきたことばなのかな?
ダイアン・デ・プリマというアメリカの女詩人からガリ版刷りでゲーリー・スナイダーのところへくばってきたのを,さらに海賊して増し刷りしたのから中山容が訳した≪革命の手紙≫というのはどうだろう。ニホンゴでのいい例でないのが,ざんねんだけど……
♯18 後退について語りましょう 後退は革命では しばしば必要な技術です 後退と逃亡とを混同してはいけない とイ・チンはいっている それどころか しばしば 一歩後退二歩前進です つまり前もって 行くべき人物や場所を知るのは そこに達することである 旅の用意に家にお金は現金で貯え 身分証明書類も余分に一組 ロバート・ウィリアムズ は自分のテレビで自分を逮捕しに 男が来る時を知った そして戦利品を家にのこし妻とこどもを つれてカナダからキューバに 行った 性能のいい働きものの車があるのは いいことだ ひとりの仲間が フォークスワーゲンに二週間分 食べもの,水,マッチ,衣服,毛布,ガスをしまっておいた それまでには町につきいつでも 出発できる それに考える材料も必要だ
これは京都市右京区太秦乾町13の2,長田方から手に入れることができる(※)」
「それがまた問題なんだな。ユズルさんの≪かわら版≫にしろ,かげでこそこそやらないで,ちゃんとしたところから,ちゃんとした印刷で出したら,もっと影響力をもつとおもうんだが」
「自分の能力をこえて運動なり商売なりが大きくなりすぎるというのは,たいへんなんじゃないかな。等身大がいいんじゃないかな。必要としてるひとは,さがし出して手にいれるし,それほどではない人の手にわたっても,それは紙のムダで,山の木がそれだけ切られ,海がそれだけよごれる」
「活字や,ことばによらないで,ノン・バーバルに,体でじかにつたえるというコミュニケーションの方法では,一部の人にしかつたわりませんね。どうしても閉鎖的になる」
「それがサブ・カルチャーとか,アンダーグラウンドとか,カウンター・コミュニティというものじゃないか? しかも,むかしだって,えらい人のうわさをききつけては,はるばるとおいところから,ならいにいったものだ。そういう,うわさみたいなものとか,中央から活字でまきちらされない情報とか,ことば以前の身ぶりとか触感とかそういうものをたいせつにするところから出発しなおしたらどうだろう」
※ 1970年現在。
(1970年)