ついに地球の資源は限られているということが,だれにとっても実感をもって明白になってきた。ベーシック・イングリッシュの限定された語彙と組織はこの時代にふさわしい。
大きくなるのは良いことだ,それが進歩のしるしだ,と旧世紀まで多数のひとが思ってきた。だからBASIC EnglishにもとづいたGraded Direct Methodで最初は感激したひとも,もっと表現方法のたくさんある「ひろい」世界へ出たくなったり,なんか自分自身の「進歩」が感じられなくなったり,もう「全部」知ってしまったから勉強はこれ以上しなくてもよい,という気分は研究会を不活発にさせる原因のひとつだろう。
「爆発的」な発展というような言い方があるが,この”explosion”に対して,すでに1960年代にマクルーハンは”inplosion”の時代にこれから入っていく,といった。”Ex-plosion”が外に向かって爆発するのに対して,”in-plosion”は外側はそのままだが内に向かって一挙にひび割れが何倍増にも走るとか,そうイメージなのだろう。”Inplosion”はそれを読んだ1970年当時には実感することが難しかったが,いまはGDM/BASICのメンバーどうしの交流をおもってみても,新幹線や高速バスやマイカーのような交通機関のみならず,電話/ファックスに加えて,E-mailのやりとりによって,コミュニケーションの網目が密になり,あたまのなかみの共有化が一挙にすすんだことが感じられる。Inplosionをどう訳したらよいかわからなかったが,さいきん「内破」ということばを見かけた。
ベーシックは外枠は決まっているが,じつは使うひとの頭のなかで内破をおこさせるのだ。ベーシックはそれ自体で完成された組織でありながら小規模であるから,ことばのはたらきを観察するのに絶好の実験室である,とI.A. Richardsが書いていたのを昔どこかで読んで,そのときは意味がわからないながら,気になっていた。そこからおもいだされることは,動物行動学者のコンラート・ローレンツが生態系の観察をするのにアクアリウムをすすめていた(注1)。
それはほどんど金がかからず,しかもじつに驚異にみちたものである。ひとにぎりのきれいな砂をガラス鉢の底にしき,そこらの水草の茎を二,三本さす。そして数リットルの水道の水を注意ぶかく流しこみ,水鉢ごと日のあたる窓ぎわに出して数日おく。水がきれいに澄み,水草が成長をはじめたら,小さな魚をなん匹か入れる。これでアクアリウムはできあがりだ。…
アクアリウムは一つの世界である。なぜならそこでは,自然の池や湖とおなじく,いや結局はこの全地球上におけるのとおなじく,動物と植物が一つの生物学的な平衡のもとで生活しているからである。植物は動物が吐きだす炭酸ガスを利用し,かわりに酸素を吐きだしている。…
I.A.リチャーズがベーシックを実験室にたとえた意味がこのごろになってわかるようになってきた: たとえば,室勝,後藤寛,相沢佳子などのしごとは,英語を母語としないひとたちが,ベーシックによって,英語を説き明かしている。
あるいはGDMで教えつづけているひとたちには学習の心理や認知のプロセスについて多くの発見があり,たとえばわたしはEPの認知的段階づけに気づいたりした(注2)。リチャーズはハーバード大学にいたとき自分の考えを説明するのに,ジェローム・ブルーナーの理論をつかった。当時ブルーナーは学習心理学と呼ばれていたので,わたしはあまり興味をもたなかったが,そのなかみは今風にいえば認知心理学だったことが,わたしには1990年以後になってわかってきた。なぜ「学習心理学」がきらいだったかというと,「学習」の意味をあまりにも狭くとり,学習についての伝統的態度について無批判であった。伝統的学習観の外に出て,学習を見なおす「メタ学習観」が必要だとわたしはおもっていた。伝統的学習観のなかから見るかぎりGDMはなっとくのいかないものであった。
私は英語のために勉強はしない ただ聞き流すだけ!
発音練習・テキスト不要
という高速英語学習法「スピードラーニング」の新聞1ページ大の広告を見たことがあるでしょう(たとえば朝日新聞,2001年4月2日)。それがうまくいくのは,いわゆる「勉強」ではない仕方で英語が入ってくる仕掛けになっている。まず「発音練習・テキスト不要」とあり,開発者の大谷登のことばによれば
英会話学校,テレビやラジオ講座,通信教育など,英会話に関するありとあらゆることにチャレンジしましたが,一つ試しては挫折,また試しては挫折の繰り返し。そこで,飽きっぽく怠け者の自分でも続けられる教材。勉強をしている感覚がないのに英語をマスターできる方法はないかと考えたのです。自分は学校のように教科書を使っての勉強では長続きせず挫折してしまう。
…そして思い付いたのが,ただ英語を聞くだけですむように,英語の後に日本語の訳を入れたテープだったのです。
そしてそのようなテープを自作し「とにかく英語の勉強は一切しない。これで覚えられなくても元々だと考えました。おかげで英語の勉強のための時間が必要なくなりました。」
じつはこのひとは自分で言語材料をさがし,訳を入れてテープを自作するという手間をかけているが,これは「勉強」ではなく,彼が嫌だったのは 「勉強=覚える」ということだったようだ。いままでの「学習」方法についての猛烈な反発があり,彼はロザノフ博士の高速学習法に触れる。「従来の学習法では緊張することと反復練習をすることを基本にしているのに対し」ロザノフ流は音楽を聞かせるなどリラックスさせて,意識下にはいってくるようにする。
何かを始めるときは誰しも意気込んでしまいますが,肩に力が入った状態では,長続きしません。英語も同じで,…
古い「学習心理学」の実験方法はたいてい,ノンセンスな音節や図形を記憶させて,その数を計ったりした。しかし意識下もふくめて学習者の学習に対する気持ち全体を視野に入れなくてはならないことがわかってきた。たとえば「ストラテジー」ということばが登場するようになってきた(注3)。あるいは,Ellen J. Langer,The Power of Mindful Learningという本では伝統的学習観の7つの迷信を指摘している。たしかにそのような迷信をもつひとにとってGDMはなっとくのいかないものであるにちがいない(注4)。
- 基礎は第二の天性になるまで習わなくてはならない。
- 注意を払うということは一時に一つのことに集中することだ。
- 満足を先のばしすることが重要だ。
- 丸暗記は教育にとって必要である。
- 忘れることは問題である。
- 知性は「外側の事実」を知ることだ。
- 答えは正答か誤答のどちらかである。
いままでの学習観について,これではだめだという反省がいろいろ出ている。たとえば78歳で亡くなった宇宙物理学者の小田稔さんは,生前,小学校で話しをしたときのことを語った (朝日新聞,2001年3月30日「天声人語」):
いちばん反応するのは一,二年生。目をきらきらさせて,風圧を感じます。高学年ほどはにかむようになる。教えることが子どもをだめにするんじゃないか。僕は学問の中身を教えるのじゃなく,学問っておもしろいよということを伝えたい。
中身よりも,態度が問題だというひとたちのおちいりがちな点は,面白さについてその感激を語り,学習についての好ましい態度はかくかくしかじかであると言って聞かせることに終わってしまいがちだ。あるいは英語は面白いよ,という印象をあたえることが,いつのまにか英語教育の目的になりかわっている。英語を小学校に導入した成果について
英語は楽しく
基本構文の暗記より 「国際派」育成が狙い
というような見出しがある(朝日新聞,2001年4月2日)。ここで忘れられているのは,学習の仕方とか,なかみについての態度とかを変えることができるためには,実際にその材料を扱うことを通してのみ可能だということだ。
なかみと方法についての混乱はいくらでも例をあげることができる:
信州大の渡辺時夫教授(英語教育学)は,日本の英語教育の欠点は,英語で考えたり話したりする授業が行われず,基本構文を覚えることに重点が置かれてきた点にあると指摘する。「聞く力の土台ができてなければ,話す力は伸びない。教科書の例文をひっくり返して読むだけでは応用力もつかない」 (朝日新聞,同上)
新指導要領では,特有の表現が使われる「買い物」「あいさつ」「電話での応答」など10の場面と,「説明」「報告」「賛成」など17の言語の働きが示された。
これらの例示に沿い,レストランでメニューを持って来てもらったり,バスの車内で運賃を尋ねたりするなど日常の実践的な表現をイラスト付きで紹介。各社とも英語で表現することへの親しみを持たせる工夫をこらした。..
一方,英語教育に対する基本的な考えによって,内容に差が出た部分もある。
以前から「聞く・話す」を重視する社では,本文の大半に対話形式を採用し,その分量が7割を占めた。会話の基礎になる文法や文形の学習を重視する社では,本文に長めの伝記や叙述文を残した。(朝日新聞2001年4月4日)
ひとつの混乱は,言語現象の表層の不規則性に目をうばわれて,もうすこし深い層における規則的な文型に気づかず,会話と書きことばをまったく異なったものと思いこんでいる。もう一点はコンピューターのプログラミングということを通して,脳のはたらきとの類似がうかびあがってきた。そのため「認知」とか「学習」とかが,かなり一般的なキイワードとなってきた。なかみよりは,それの処理の仕方に関心が向いて来た。これは勉強についての固定観念についての反省として評価できるが,それが極端に走ると唯脳主義というか,すべては脳のなかで決まるから,脳のなかで良いことをすれば,それだけでいい,と思うような傾向もふえてきた。つまり良いプログラミングさえしておけばいい,という考え方だ。しかし脳のなかのことは外からのシゲキによって起こるし,一挙に良いプログラムが出来上がるはずはなくて,現場で実際に使ってみてのフィードバックをとおして,プログラムはだんだんに改良されていくものだ。
ロボットにサッカー試合などをさせる場合に,ロボットの設計のしかたに二通りあって,たいていのロボットは,あらかじめ戦略的な動きを人がコンピューターにプログラムしておく。それに対して,自分でサッカーを学習するようにロボットを設計しておく研究者がいる。コンピューターによる人工知能(AI)の研究をすすめていくうちに浅田稔・大阪大学教授が考えるようになったことは「コンピューターにロボットという『肉体』を与え,現実の世の中を体験させ,学習させること」の重要性だった。(朝日新聞,2001年3月9日夕刊)
AIに「机」を理解させたい時,プログラムで「机」とは四角くて,木や鉄でできている」と教え込むこともできる。しかし,これは言葉と言葉を結びつけただけだ。
人間は机に触り,使ってみる。「それで初めて机とは何かを理解しますよね。肉体があるから可能なんです。AIにロボットが必要なのはこのためです」と浅田さん。… …[基本的な]行動原理は「とにかく動く」という単純なものだ。障害物など,センサーから入った情報は直接,避けるなどの動きに結びつける。行動計画を立てるなどの時間がかかる手順は踏まない。
「知能とは,人間が外から詰め込むのではなく,身体と環境の相互作用から現れるようです。…」と松原仁・公立はこだて未来大学教授はコメントする。
ロボットをいきなり広い世界に放り込んだら,対応できなことが続出,立ち往生するだろう。だが,サッカーは,競技場内の限られた環境,ボールという対象,仲間とのチームワーク,得点という明確な目標など,適度な複雑さがある。…
「環境にほっぽり出したままではだめだし,プログラムを詳しく書きすぎて,過剰に介入しても成長しない。しかし,母親のように見守り育てれば,可能性はあると思います」
と浅田教授は人工知能について希望を語る。限定された状況内での体験が知能を育てるということはそのまま,GDM/BASICのようなの制限言語内での直接体験が,学習の仕方とかストラテジーをさらにたくみにしていくことに,かさねあわせて見ることができる。
コンピュータに言語を覚えさせることを通じて,赤ちゃんがいかにことばを覚えるかを探っている須賀哲夫・日本女子大学教授,久野雅樹・電気通信大学助教授らの「赤ちゃんコンピュータ」の紹介もおもしろい。(朝日新聞,2001年2月3日夕刊)
仮想空間の中に,「赤ちゃん」自身のほかに,時計や箱,本などの物体が配置されている。研究者が「親」となって,キーボードから「わたしはおかさんです」などの会話を入力する。「赤ちゃん」は最初は白紙の状態だが,違う部分と共通する部分を見分ける能力はある。
「赤ちゃん」は「あのはこはきいろです」「このほんはあおいです」といった文章を聞くと,「あの」「この」や「きいろ」「あおい」などの違う部分を比べ,「青い色」を「あおい」と表現することなどを学んでいく。…
…須賀さんは「赤ちゃんの言語獲得のかなりの部分を,この方法で説明できると思う。今までが複雑に考えすぎていたのではないか」という。
わたしたちの言語や認知は「たとえ」の原理にもとづいている,とリチャーズは『修辞学の哲学』でいった。Metaphor すなわち類似を見るということ,新しい経験のなかに古い要素を見る,異なったシゲキのなかに同じ要素を見る。GDMの新しいteaching pointの提示のなかに,生徒は古い要素と新しい要素を見る。たとえば,わたしの大学1年生にEP1を最初からp.51まで週2回で半年やった感想にこんなことを書いたひとがいた(注5):
中学ぐらいの英語だったので全く理解できないわけでもなかったです。…回数を重ねていくにつれて少しづつ文章は理解に難しかったけど,単語が少しづつ自分の頭に入っていくのがわかりました。次ぎの時間になると,頭に入っていた単語が出てくると,ちょっとは反応するようになりました。(原文のまま)
GDMで学習について自覚的になった生徒は,もっとひろい言語に接しても,どこに注意を向けたらよいか,感じとしてわかっている: どこまでが共通で,どこが変数の部分であるか。わたしたちが発見しながら基礎を教えれば,生徒は学習の仕方を身につけて,あとは自分できりひらいていく。このことはリチャーズたちがDelmar ProjectでLanguage For Learning(LFL)の長期的効果についての追跡調査でかなりな数値をあげている(注6)。
以上,GDM/BASICの限定的世界が新世紀の実験室としてうってつけであることを述べた。
注
- Konrad Lorenz, The King Solomon’s Ring. コンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』(日高敏隆訳,早川書房,1970),pp. 23-22.
- 片桐ユズル「GDMの認知的段階づけ」GDM News Bulletin,No. 46 (1994).
- 此枝洋子「言語学習ストラテジーとGDM」 GDM News Blulletin,No. 51(1999).
- Ellen J. Langer,The Power of Mind-ful Learning (Reading,Massachusetts: Addison-Wesley,1977),p. 2.
- 片桐ユズル・吉沢郁生編『GDM英語教授法の理論と実際』(松柏社,1999),p. 214.
- Yuzuru Katagiri and John Constable,eds., A Semantically Sequenced Way of Teaching English: Selected and Uncollected Writings by I.A. Richards (山口書店,1993),pp. 399-361.
from GDM News Bulletin,No.53 (2001)