英会話と言文不一致

投稿日 2009年4月1日

なんで会話, 会話といって大騒ぎするのでしょう? いままでふつうに英語教育でいわれてきた4技能, 読み書き話し聞くのうちの手薄だった聞く話す能力を強めればよいことでしょう? といってもなかなかなっとくしてもらえない。 その背景には根強い「言文不一致」の歴史があると, わたしは思う。
長いこと日本語は言文不一致であったのを,明治の偉大な文学者たちが大変な努力で言文一致の文体をつくりだした。 ここには日本国の生存をかけての近代化の問題がかかっていた。 いま英語コミュニケーションといってさわいでいるひとたちも, このグローバリゼーションの時代に日本の生存が英会話能力にかかっているような危機感をお持ちなのでしょう。 しかしその解決策が言文一致の方向をむいていません。
実は英語は世界の言語のなかでも, もっとも言文一致っぽいものなのです。 それがひとつの理由でもあって, 現在の世界共通語的な位置を獲得しました。 しかし多くの日本人はなんとなく言文は不一致なものであるような意識を強く持っていますから, 英「会話」は普通の英語とは別に練習しなくてはならないと思い込んでいるようです。 しかし何でも見てやろうと世界中を股にかけ, 爆撃される側のフツーのひとたちとの連帯をつくってきた小田実は教科書以外の英語はいっさい習ったことがなかったのでした。 英語は言文一致ですから, 書いてあることを口で言えば会話になるのです。
しかし英語を教える側でも, 言文不一致を強調するひとたちがいました。 「言語は本質的に話しことばである」として言語学は出発したものですから, 書きことばとの相異を指摘することが面白くてたまりませんでした。
綴り字と発音の不規則な関係は英語の難点のひとつですが,これを記述するために発音記号がつくられました。 昭和のはじめに来日して以来長いこと日本の英語教育に影響をあたえつづけていたハロルド・E・パーマには『英会話の理論と実際』(開拓社, 1947)という本があり, これこそ科学的な信頼おける方法だと思って私はとびつきました。 すると「もし現代の英国人が十七世紀に引き戻されたと仮定したら, 社交上の極めて簡単な会話をするのにさえ, 非常な困難を感じるであろう…もし, 英国人が自分の国語を誤用して『不体裁なものとなる』としたら, 外国の英学生が自国語とほとんど類似点のない英語を使う場合にいかに『不体裁なものとなる』かは言うまでもない」(pp.40-41)。 これを読んでわたしは「英会話」をあきらめた。
一方アメリカではミシガン大学のフリーズなどが新しい言語学にもとづいて, 電話での会話をかたっぱしから録音にとり, それにもとづいて Structure of English (1952)を書き上げたとか聞いた。 これこそほんとうに Grammar of Spoken Englishだと期待したが,なかみはそれほど今までの文法とちがうものではなかった。
けっきょく終戦後にわたしたち世代を解放したのは5文型という考えで, これをひろめたのは How to Write Good Englishという文法を教える検定教科書だった。 文型さえおぼえればよいというのは, これは便利だと思ったし, すでにパーマたちからはじまっていたが, 彼らは二十いくつも文型があるといっていて, これは多すぎた。 ところが, すべてのことが, たった5つの文型で言える! これは画期的なことであった。ところが5文型は今ではすごく評判が悪い。 たぶん文型を使ってものをいう練習をするのではなくて, Thisis a hat と He got a hatはちがう文型だぞ,というような分類をさせて, 生徒いじめの道具になっているのだろう。 それにくらべてBASIC Englishでは, すべては “I will givea hat to him” の1文型で言えるというのだから, こんな便利なことはない!
 多少のぎくしゃくはあっても, なかみさえ伝わればよいではないか? 英語を母語としない話者として, わたしは『不体裁』に居直ることにした。 なかみさえ伝わればよいということについては, I.A.リチャーズの意味の四分法にサポートされた(くわしくは「ものそのものと向かいあう英語入門期の指導」, 京都精華大学紀要, 28号, 2005年)。 京都精華大学事務室で電話がかかったとき, 外人講師とやりとりしている私の英語がすっかりわかったと職員たちがいっていた。 ユズルさんは英語でしゃべっても, いつものユズルさんでいるから安心していられると友人がいった。 世の中には英語でしゃべると別人みたいになる人がいるのですね? それが「英会話」を何か特別なものに思わせるのだろうか?
明治以来の言文一致の動きは敗戦によって仕上げのチャンスが来た。 それまでわたしたちは古い「かなづかひ」と漢字を4000字もおぼえなくてはならないことで苦しめられていた。これら表記法の改革はアメリカによる押し付けだというひとたちがいるが, じつは戦前戦中からこの不一致をなんとかしなくてはならないと考えるひとたちは何人もいた。 BASICは彼らに刺激をあたえた。 たとえば英文学者,土居光知の「基礎日本語」(1933)はふつうのひとが考えをやりとりするための文体をつくりだそうとした。 English Through Picturesの英語は書きことば的だとして記述言語学のひとたちは笑い物にするが, じつはオグデンがBASICを成立させるにあたって, 当時のアメリカ人の話しことばで多用されていた”get”のお世話になっていた。 言文一致は書きことばと話しことばのすり合わせであるから, 両側も多少の不満はがまんして, より高度な統合をめざしたいものである。 (3/27/2009)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です