「ノンセンスに効用なんかあるのかな? あったらノンセンスじゃないじゃないか」
「たしかにはじめから特定の目的をもってつくったわけではなくても、結果として何かの効用があるという場合は、ノンセンスにかぎらなくても、しばしばあることだ」
「それではノンセンスにはどんな効用がかんがえられるのか?」
「まず第一に、おかしくて笑ってしまう、ということがある」
「笑うということは、それほどいいことなのか?」
「笑うと元気になるね。柳田国男によれば、むかしは敵を笑うことで、味方を元気にして連帯感をたかめるために、笑いを使った」
「なるほど、だから武士にとって笑われるということは、弱い立場に立たされ、負けたことになるから、かなわんわけだ」
「関西フォークソング運動や、オーラル派の自作詩朗読なども、東京のひとにいわせると、笑わせてばかりいて、いわば浅薄な印象をあたえるらしい。たしかに東京のばあいとちがうのは、関西のばあいは、集会などでたいてい、わらべうたとか、ことばあそびなどがやられるし、今江祥智さんとか、児童文学に関心のあるひとたちと重なりあっている。これが関西フォーク・カルチャーを多世代的なものにしている、ひとつの力なのだろう。子どもの世界というところは、おとなも若者も女も男も安心していっしょにいることができるらしい。
ここでいちばんの力は有馬敲さんだろう。彼の『ぼくのしるし』はもりくにすみえさんが曲をつけて、関西フォークソング運動のごく初期から、わたしたちの愛唱するところだった。それで、こんど、この原稿をかくために有馬さんのレコード『ぼくのしるし──わらべうた24』(URL-1012)をひっぱり出してみて、あらためて有馬さんの偉大さをみなおした」
「有馬さんの詩には、関西のフォークシンガーたちがあらそって曲をつけた、ということが伝説のようにいわれているけれども、どうも、もうひとつピンとこないのだが・・・」
「たしかに、さっきのレコードをつくったシンガーの岩井宏さんなどは『有馬さんはぼくらの精神的支柱です』とまでいっているが、その岩井さんがどういう詩に曲をつけたかといえば、童謡ばっかりなのだ」
「それをいいたかったね。有馬さんといえば、やはり、『値上げ』とか『安保』とか、風刺的なものがおもしろかった。それをさけて通って、なにが精神的支柱なものか」
「いや、そのころは《ばとこいあ》というあつまりを京都につくって、有馬さんや中山容さんは若いひとたちのめんどうをよく見たから、そういうこともあるだろうし、作品だけから見ても、岩井さんたちのうごきは案外あたっていたとおもう。ということは、それから6年たって1975年秋、神戸にフォークソングを中心とした《ばとこいあ神戸》というあつまりができたが、そのはじまりのころ、中村哲の『エッチ スケッチ カンデンチ』などのことばあそびの人気は、ひとつの触媒的はたらきをした。これは谷川俊太郎の『ことばあそびうた』に触発されたものだったけれど」 「やっぱり、そういう子どもの目をかりてするオトナの社会を批判するやりかた──ユズルさんがむかし『牧歌』といって、エンプソンの考えを紹介した──それなのだな。王様ははだかじゃないか、といった子どもの曇りのない目。それから、なにかというとユズルさんはすぐに『アリス』をもち出して、名前のなくなる森の絵ハガキをつくってノンバーバル経験のたいせつさをプロパガンダしたり、来週おかす罪のために、いま罰せられている使者の話をつかって、フォークリポートわいせつ裁判にプロテストしたり・・・」
「どうも、そういうのは、りくつっぽすぎて、ノンセンスとはちがうみたいだ」 「では、ノンセンスとはなんぞや?」
「むかしElizabeth Sewell,The Field of Nonsense(Chatto,1952)という本をよんだら定義が出ていた。くわしくは忘れたが、ノンセンスは、ことばによるゲームで、ゲームだからルールがあり、それにしたがって異常な関係をつくりだすのだそうだ。印象的だったことは、この定義で厳密にかんがえると、ほんとうのノンセンス作家はルーイス・キャロルとエドワード・リアのふたりしかのこらなくなってしまう」
「それこそナンセンスだ」
「それともうひとつは、ノンセンスが夢や詩とちがうことは、夢や詩では対象が変幻自在──恋人だとおもっていたら母親だったり、愛だとおもっていたら死だったり、こういうとらえがたい感じがある。それに反してノンセンスはルールによるゲームだから、ルールが適用できるためには対象が変幻してはこまる。対象ははっきりと個別的でなくてはならない」
「そういう話をきくと、『アリス』はむしろ夢的ではないか?たとえば、白の女王が急にヒツジになってしまったり、とつぜん編棒がアリスの手の中でオールに変わり、いつの間にやら二人は、店の中にいたはずなのに、小さなボートにのっていたりするね。そしてアリスが燈心草を摘むと
燈心草が摘んだ瞬間から、しおれて、かおりも美しさもなくなって行ったことなど、そのときのアリスにとってはどうでもよいことでした。ほんもののにおいのいい燈心草だって、ほんとにちょっとの間しかもたないものなんです──ましてこれは夢の燈心草なんですから、アリスの足もとに重なったまま、ほとんど雪のように溶けて行ってしまうのでした──
本文にも、ちゃんと夢だと書いてある」
「だから、うるさいひとたちはキャロルよりもリアをひいきにしたりする。たとえばオールダス・ハクスレーは、ルーイス・キャロルは意味を誇張することによってノンセンスを書いたが、リアは想像力の誇張によってノンセンスを書いたし、ことばも感覚的にゆたかで、こちらの方が本質的に詩人だ、といっている。しかし有馬さんにもリアにまけないくらいノンセンスなのがある。たとえば『ちちんぷいぷい』」
きりきず いたけりゃ いたちのふん つけろ さっと いたけりゃ さるのふん さいのふん ちちんぷいぷい おしゃかの はなくそ うちきず いたけりゃ うさぎのふん つけろ うんと いたけりゃ うしのふん うまのふん ちちんぷいぷい おしゃかの はなくそ・・・
「これは有馬さんが自分でつくったのかなあ? それとも、伝承をひろってきたのかなあ?」
「もう、こうなってしまったら、どちらでもいいんではないか? かりに後者であっても、これを記録にあたいすると判断したことは偉大だ。とにかく、いいいものが、世にひろまり、後世につたわればいいのだから。これなど”Hey didle, didle”にも匹敵するね」
「なんだい、その、ヘイ・ディドル・ディドルというのは?」
「マザー・グースのノンセンスのなかでは一番有名なもので、ことばのゲームとしてこれほど異常な関係をつくることはむつかしいのではないか」
Hey didle, didle The cat and the fiddle, The cow jumped over the moon; The little dog laughed, To see such sport, And the dish ran away with the spoon.
へっこら、ひょっこら、へっこらしょ。 ねこが胡弓ひいた、 めうしがお月さまとびこえた、 こいぬがそれみてわらいだす、 お皿がおさじをおっかけた。 へっこら、ひょっこら、へっこらしょ。
(北原白秋訳)
「谷川さんの訳では『えっさか、ほいさ』、ユズルさんは『ティラ、リラ、リラ』だけど、かけ声とかノンセンス・シラブルの日本語化について、白秋にはかなわない。”Rub-a-dub-dub”が谷川さんは『どんぶらこっこ、どんぶらこ』、白秋は『どんどこ、どんどこ、すっどんどん』だ」
「そういう歌のくりかえし、ファ・ラ・ラとか、それもノンセンスなのか?」
「意味がない、といえばたしかに意味はないね。有馬さんの『はあ とう とう とう』はニワトリを小屋へ追いこむときのかけ声だが、18行にわたってそれ以外の意味のあることばはぜんぜんない。しかしニワトリを小屋へいれるという、はっきりとした目的がある。これをノンセンスといえるのかな?それからもうひとつは民俗学の領域になるが、むかしは意味があったものが、時代が下るにつれて、よくわからなくなり、ノンセンスとおもわれるようになった。くわしい話は『英語・まちがいのすすめ』の第三部とだぶるから省略するとして」
「『かごめかごめ』などがそれだ」
「ところが、いま問題にしているノンセンスは、はじめから無意味なのではなくて、意味のあることばが、たがいにうちけしあって、ノンセンスになる、といったらいいだろうか。それではこんどは有馬さんの『ありがとう』というのを読んでください」
ありが とう なら みみずが はたち へびが 二じゅう五で よめにいく おや まあ そのうそ ほんと ありが たい なら いもむし くじら むかで きしゃなら はいが とり おや まあ そのうそ ほんと・・・
「ノンセンスのゲームが可能であるためには、名前はモノそれ自体ではない、名前とモノとの関係は人間がつくった約束だから、人間はそれを変えることができる──こういう意識が必要だ。逆にいえば、ノンセンスをおもしろがった瞬間には、名前とモノは今までの既成の関係を切りはなれている。このようにしてシンボルに支配されずに、人間がシンボルを支配するようになれば、そういう意味論的に健全な態度は、ノンセンスの効用のひとつだ」
「おやまあ、そのうそ、ほんと?」
「そういうまぜっかえしをすると、素朴な読者は混乱するよ。ユズルさんの真意はどこにあるのだろう?と」
「では真意はどこにあるのだろう? はっきりいってみたら」
「だから、わたしの真意は以上あげた作品がノンセンスとして飛躍が大きく、すぐれたものであることを、他のそれほどでないものとくらべてみたい。たとえば、おなじく有馬さんのものでも
まいまいが まいまいます まいまいが まいまいましょうと まいまいます・・・
とか
ぴんこちゃんと ぽんこちゃんが ちゃぶちゃぶ ぴんこちゃんが ぽんこちゃんの ぽんぽんけって ぽんこちゃんが ぴんこちゃんの ぽんぽんけった・・・
などというものは、音のおもしろさはとてもあるのだが、意味上の緊張がない。
つぎに岩井さんがよくうたっていたのに『ひざこぞうのうた』がある。
ひざこぞうに かぜがふく みじかいすかーと ふくらんで みずたまりの あおぞらに ぽっかりうかんだ らっかさん・・・
これとか『かんがるーのおかあさん』などは現実からの飛躍があまりなくて、精神も緊張をしいられない。のんびりとおふろにはいっている感じだ。たまたま『ゆあそび』というのもある。
おふろのなかの てぬぐいぼうず かおかたちのない のっぺらぼう あたまをなでて ゆへしずめたら あぶくをだして きえちゃった・・・
それから『ぼくのしるし』をヒットさせたもりくにすみえさんが有馬さんの『うたれたしか』にも曲をつけた。彼女によれば、うたれて傷ついて捕えられ、うしろかたあしかばってすわっているシカは、学生運動家なのだそうだ。しかし、たとえとか、象徴とかと、ノンセンスは、ちがうね」
「ユズルさんの『ネコのおばあさん』はどうだろう。そのころはもう人間の赤ちゃんがネズミのようにたくさんうまれて、たべるものがどんどんなくなって、ネコロジー危機なのでしょう」
「だから純粋なノンセンスとはいえない。それよりはむしろ『イヌのおさむらいさん』のほうがイヌの出てくることわざを、わざと文字どおりにとってノンセンス化しているわけだが、音とかリズムとかの緊張感がないね」
むかし イヌのおさむらいさんがおりました 星を見ようとして 東をむくと しっぽが西をむきました ネコと結婚しようかとおもいましたが ニャアワンのでやめました 川をイヌかきおよぎでわたると 川ばたをどんどんあるいていきました すると夫婦げんかがおちていましたが たべませんでした ひとつひとつの石におしっこをひっかけながら 川ばたをどんどんあるいていくと 棒にあたって 死んでしまいましたので イヌ死にだなあと と みんながいいました とさ
「それから、もうひとつ『鬼のむすめさん』というのを作ったけれど、これはむしろクマのプーさん的世界とノンセンスの世界とをつないでみようとしたのだが、うまくいかなかったようだ」
「プー的世界というのはどういうこと?」
「さっきいったように、ノンセンスの世界ではシンボルを意のままにあつかうのであって、シンボルに支配されない。しかし気のよわいクマのプーさんはシンボルのふしぎさに動かされている。しかし、そのことを意識している。リアの世界がシンボルの真昼なら、プーさんはシンボルの夜明けだ。別の言い方をすれば、名前はモノそれ自体ではなく、約束にすぎないのだから、人間がつけかえることができる。しかし新しい約束をしたときに、古いシッポがくっついてきたとして、それをおもしろがるのがプーさんの世界かな。くわしいことはむかし『ことばの国のアリス』にかいたけれど」
「『鬼のむすめさん』をまだ見たことがないので、紹介してください」
「いや、今回はスペースがないから、またいつか朗読会などで聞いてもらうことにして、きょうは友人のオーマンディさんを紹介しよう。フィラデルフィア交響楽団の常任指揮者として有名なひとですが、日本の国鉄が時間どおりにウンコオするので、おどろいたそうです」
「またまたそのうそ、ほんと?」
「次は有馬さんのものですが、ほんとのうそです。きいてください」
ひつじさんが むしゃむしゃ じどうしゃをたべました じどうしゃをね ほらごらん こうこくにかかれた じどうしゃをね ひつじさんが がりり がりり げんすいせんをたべました げんすいせんをね ほらごらん しんぶんしゃしんの げんすいせんをね
「みごとにモノそれ自体と、それをあらわすシンボルとを、分けて見せている。
けっきょくシンボルを意のままにあつかうことで、そしてすべてをノンセンスにしてしまうことで、どうせこの世ははじめからノンセンスだったのだが、純粋なエネルギーのよろこびみたいなものがむきだしになるね。オールダス・ハクスレーによれば『ノンセンスの存在は、人生が生きるに値するという証明不可能な信念──を証明する一番の近道だ』という。これは新倉俊一訳編、エドワード・リアの『ノンセンスの贈物』に出ている。ハクスレーは『環境の抑圧にたいする人間の精神的自由の主張なのだ』ともいっている」
「そんなむつかしいことをいわなくても、笑うことで力を確認して元気になるとか、そういう原初的エネルギーが解放されているところで老若男女が連帯するとか、そういったらいいではないか」
「でもね、さいごに蛇足をつけくわえれば、有馬さんはほんとうは怒りの詩人なのだ。岩井さんたちと《ばとこいあ》をやっていたころだって、朗読会にメガホンをもってあらわれ、こわい顔して『破壊党宣言』をどなったのだ」
「『新日本文学』1979年1月号に、有馬さん自身が、ひとからそのように怒っているとみられたことについて、なにか書いていたね」
「盾のもうひとつの面を見れば『ノンセンス・ライムとは、大部分、天才ないし変人と世間の連中とのあいだの永遠の葛藤の歴史から選ばれた挿話以外のなにものでもない』とハクスレーはいっているし、新倉さんの解説によれば、『ノンセンスの贈物』に扱われている多くの倒錯は、実際のリアの経験にもとづいたものであるそうだ」
上野瞭編『叢書児童文学第3巻・空想の部屋』(世界思想社 1979年)